シャレステ感想と“再演”について(※特大ネタバレ)

※この記事は舞台版に限らず、ゲーム『CharadeManiacs』の真相ルート以外のネタバレも含んでいます。ゲームクリア前の方は絶対に見ないようお願いいたします。

 

 

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【はじめに】

 シャレードマニアクス舞台版(シャレステ)、見てきました。オトメイトの舞台も2.5次元舞台も世の中にはたくさんあるでしょうが、シャレマニ自体が演技や観客のいる配信番組を物語の要素として用いていることもあって、舞台化の相性が明らかに良いんですよね。2020年の上演時も見に行きたい気持ちはありましたが、この時は2次元を3次元化することへの抵抗感が強く、コロナ禍も重なってスルー。後にゲネプロ映像が360Channelで配信され、シャレマニと舞台化の相性◎っぷりと、原作にできるだけ近づけながらも舞台だからこそできる感情のぶつけ合いを舞台上でやりきった演者の方々の努力に度肝を抜かれ、舞台化への印象がガラッと変わりました。現地に見に行かなかったことをとてつもなく後悔し、流石に再演はないよな…と思っていた2023年秋。ゲーム5周年を迎え、コロナも落ち着きつつあるこのタイミングでのまさかの再演決定。これはもう行くしかない!と思い、チケットを握りました。実際に生のお芝居を肌で感じられてとても良い経験となりました。本当に感謝。当記事では舞台の感想を語った上で、ゲーム本編にも存在した『再演』概念について考えてみたいと思います。

 ※以下、ゲーム本編(真相ルート以外の部分)やキャラソン、小冊子等のゲーム外供給、舞台等のネタバレを大いに含みます。シャレマニ未プレイの方が万が一このページに辿り着いた場合は、この先の記事を読まずにVitaかSwitchかスマホアプリ(iOS/Android)でゲーム本編を遊んでいただけると幸いです。一番おすすめしたいのは冒頭無料かつシステムの一部が快適化されたアプリ版(3800円)です。よろしくお願いいたします。

 

 

【シャレステ感想】

 配信での観劇(Dミュ)や音楽ライブ内での現地観劇(ミリオンライブ6th追加公演)はあったのですが、純粋にお芝居だけを見に行くのは初めてでした。当てた席はド上手(客席から見て右側)前方。め~~~~ちゃくちゃ近かった。音楽ライブは別作品で時々現地に行ったことはあったのですが、普通に武道館の天井とかさいたまスーパーアリーナの後方とかで演者のフォルムしか見たことがなかったので、表情がはっきり見えるくらい近い場所で「観る」体験が初めてでした。あまりにもヤバイ。演者と目が合うわけではないけれど、遠くを見たり視線を外すときにドキッとするぐらい近いんですよね。そのおかげでゲームで拾えない連続的な動作や視線による表現が味わえて本当に楽しめました。まあド上手ゆえに、下手は見えづらかったのですが…それでも表情は全然わかるというのが凄かったです。

 やや話は変わりますが、逆に(良い意味で)全く見えなかった部分もあって。暗転の時の各々の動きが見えなかったんですよね。目が慣れるとある程度見えるのかな?と思っていたんですが、わりと最後のほうまで「いつのまにか移動してる!?」と驚けて面白かった。あんな暗闇でちょっとした蓄光バミリ?を頼りに動けるのが本当にすごい。

 

 

 あと、これは良し悪しあるのですが、近かったのは演者だけではなく…音響機材(スピーカー)も距離が近くて爆音を浴びてました。シャレマニの音楽が大好きなので、基本的には、基本的にはアゲアゲ↑な気分になれていいんですけど…。今回おそらく演出強化の一環で新しいSEが追加されていた(元からあったものかも)と思うのですが、それらがあまりにも爆音で鳴るもんだからマジでそこはうるさかったです。例を挙げるなら序盤で凝部がバウンサーにアナログゲームを頼んで、暗転後に実物が出現するシーン。おそらくあのタイミングで初めて爆音SEを浴びたので強く印象に残っていますね。配信では勿論そんな爆音にはならないので、ある意味現地(の端っこ席)ならではの体験ができたのかなと思います。耳に支障が出たわけでもないし、それはそれで良かったのかもしれない。

 

 

 斜めから舞台を鑑賞できたこと、焦点が当たっているキャラ以外の動きを自分で追えたことも、配信ではできなかったことでした。ド上手の良いところは下手側の出入りが角度的に丸見えな点にありますね。配信だと出てくる瞬間って基本的に映らないので、スッと出てきて話し始めるのが新鮮でした。ポジション的に面白かったのは瀬名ちゃんの声を取り戻すいじめドラマで廃寺を受け止める陀宰。あまり時間がない中で廃寺役の方が窓(仮)から移動して陀宰役の方にお姫様だっこしてもらう一連の準備が結構見えました。すでに記憶があいまいですが、抱っこして裏で待機する時間は体感わりとあったような。その上、私が見た回では廃寺役の方がすぐに降りるつもりがない素振りをしていたように見えて、仲が良さそうでほほえましかったです。実際に廃寺と陀宰は加害者&被害者ですが、陀宰が廃寺に同情的な部分があるので意外と仲良く話せているんですよね(小冊子や前日譚漫画より)。だから廃寺も陀宰に対してああいう茶目っ気は見せそうだなと思います。ゲーム本編に存在してほしい動きでした。

 

 

 「焦点が当たっているキャラ以外を自分の目で追う」のは、本当に現地で観劇出来て良かった点かもしれない。最終盤のアステル糾弾シーンでずっと顔を下に向けている双巳がものすごく良かったです。大体顔を下に向けたり隠しているけど、気づけばちょっとだけ動いているんですよ。勿論瀬名母(カヨ)の名前が出たら顔を上げるし、射落さんがアステルを消去し出したあたりで動き出すのも不穏で。あとは双巳に拘束された射落さんが手を振り払った後、明瀬が心配するところも良かったです。茅ヶ裂さんもずっと申し訳なさそうに黙っているのがキャラらしかった。別のシーンだけど、デッドエンド説明時の映像を見ている獲端と瀬名ちゃんの段々思い出している感じも、ゲーム本編には描かれなかった感情の機微が見えて好きでした。

 

 

 

 特に印象に残っているシーンは「お姉ちゃん」と呼ばれて目を輝かせた瀬名ちゃんに手を握られた後の廃寺の動き。包み込まれた両手を胸に持っていって、歩き出した後も暗転するまでずーっとそのポーズのままだったんですよ。廃寺はアステルであり、つまりはAIなわけですが、アイスの冷たさや甘さを感じた上で好んでいるわけじゃないですか。だから廃寺にはきちんと五感が備わっている…ということがキャラ設定から分かるわけで、瀬名ちゃんの手のあたたかさを感じたんだろうなとは納得できます。じゃあその、「あたたかな手」をわざわざ胸に持っていく動作にはどういう意図が込められているのかなと考えていて。まあ普通に考えると、シンプルに喜びの表現だと受け取れるんですよ。ただ、手を握られて、離した後に温度的な温かさがなくなっているはずの手を大事そうに心臓(こころ)の近くに持っていくというのは、うまく言えないけど人間的な動作だな…と感じたんですよね。この一連の動作が現地で見ていて一番衝撃を受けました。

 アステルは「人は心臓じゃなくて脳で思考する生き物」と普通に分かっていそうなので、その点においては胸に手を持っていかない気がするんですよね。ただ、アステルはフヅキ(瀬名祖母)からの教えで心臓の音が人の感情と連動していることは学習しているので、そのあたりの知識をもとに意識的でも無意識的でも心臓近くに手を持っていくことは可能なのかな…と、思い返しながら考えていました。「AIであるアステルが胸に手を持っていく動作をする」表現に演者さんの意図があったのかは分からないけれど、「お姉ちゃん」呼び→瀬名ちゃん罰ゲーム後「心配されたの初めて」→後半「こうして手を握ると温かいのに離れると冷たい」(※うろ覚え)→最終盤「誰かが手を引いてあげれば〜」(※うろ覚え)というあの一連の瀬名ちゃんと廃寺が手を握る描写の多用には脚本的な意図があると思う。廃寺のキャラソン「ゆめのなかへ」も瀬名ちゃんの「あたたかさ」が印象に残っている様子が表現されているので、よりゲーム本編と歌詞に則った物語性を感じました。結局全ては演者の表現から受け取った私の想像でしか無いけれど、廃寺タクミ、アステルというAIを人間が演じる意義がこの場面に詰まっているように感じられました。

 

 

 あとは、アドリブについて。私は舞台にきちんと触れるまで日替わりのアドリブシーンに良い印象を持っていなくて。昔の私はキャラ崩壊の可能性を何よりも嫌がる不寛容なオタクだったので、役者の色が特に出そうなアドリブパートの存在を見ないくせになんとなく嫌悪していました。他のコンテンツの舞台化がどうかは結局わかりませんが、シャレステに関しては配信か円盤か忘れましたが初演の映像を見たときに「思ったより悪くないかも…」と印象が変わったんですよね。煮卵事件で明瀬が「え、俺食べちゃったよ…」みたいな焦り方をしていたり、ゲームを遊んでいる凝部が「シャレードマニ、あ…(クスッ)」と作品名を途中で止めたようで全部言っていたり。メタ的でありながらキャラに則った演技をしていることにとても好印象を持ったので、今回もアドリブは楽しみにしていました。とはいえ、序盤に双巳さんが制服姿で演技した後の陀宰か明瀬が、本当は笑うシーンなのに笑ってなくて双巳さんに突っ込まれる、というのは想定外すぎて、急なアドリブにめちゃくちゃ驚きました。配信も15日の2公演を購入して確認しましたが、見た中で好きだったのは茅ヶ裂さんの土下座ですね。あと双巳・射落さんに絡まれている瀬名ちゃんをなかなか助けない千秋楽の明瀬も、複数公演ならではで好きでした。

 一番好きだったのは、廃寺役の工藤大夢さんのアドリブでしたね…印象に残ったシーンも工藤さんのお芝居だったので、シャレステで総合的に好きだったのが工藤さんなんだと思います。なんならプレイベントの時から面白かったので。現地で観た回で隔離後に凝部と廃寺が2人で何もしてないシーンの始まりで、服のボタン(9個)とタイツの星(3つ)の数を数えるのがとてもシュールで。それで終わりかと思いきや陀宰と瀬名ちゃんが話している脇の、席的にほぼ正面で差し入れのサクランボ?やブドウを数えだしたのが個人的にツボで、でも静かなシーンなので声出して笑えなくてめちゃめちゃ辛かったです。辛くなるくらい面白かった。それだけでも最高だったのに、終演後のコメントでタイツとボタンを指さして「39(サンキュー)」で〆たのが伏線回収すぎて普通に感心してました。え!?すご…みたいな。長年ハマっている推しコンテンツ(アイドルマスターミリオンライブ!)がサンキューを伝えまくる作品なので、余計刺さったのかもしれない。終演後に及ぶ「本編を超えた仕込み」という発想が全然なかったので、良いアドリブ体験ができたなと感じました。

 

 

 

【シャレマニと再演】

 記憶がある限り永久に振り返ってしまいそうなので一旦舞台そのものの感想は置いておきまして。ここからは「再演」という概念の話をしようと思います。ざっくり言うと「再演」展開があるシャレマニの舞台化で「再演」が見られて良かったねという話。

 

 

 シャレマニが演技や舞台の要素を物語中にふんだんに取り入れていることは、ゲーム・舞台で物語に触れた人のいずれも実感するところだと思います。「再演」については、瀬名ちゃんの声を取り戻す再演、獲端の腕を賭けた再演、凝部の代わりに罰ゲームを受けた陀宰と凝部出演ドラマの再演─などなど、色々な再演がゲーム内に登場しました。勿論全てを舞台版で描くことは不可能なので、舞台ではいじめドラマの再演(と若干触れられる茅ヶ裂さんの足の機能を取り戻す再演)のみに留まっています。これらの再演は罰ゲームと関連した再演ですが、攻略キャラクターの中でプロローグに披露した一場面を個別ルートのエンディングで“再演”をするのが萬城トモセでした。

 

 

 瀬名ちゃんに自分を恋愛対象として見てもらえない焦りが声や顔(スチル)に滲んでいたトモセは、お芝居の中で瀬名ちゃんと恋人になれるアルカディアのルールに一度は迎合し、瀬名ちゃんを想って視野が狭くなるあまりに周囲との不和を生みながらも、個別ルートではトモセと向き合おうと体を張って罰ゲームを受けた瀬名ちゃんと過ごす中で少しずつ変わっていきました。そしてエンディングでは「やり直し」を望んでいた瀬名ちゃんに対して、同じセリフ、同じシチュエーションでありながら穏やかな声色と表情で告白を“再演”します。同じ台詞でも演じる人の心境の変化によって僅かに、あるいは大きく印象は変わる。諸々が変わったとしても、内に込められた思いは変わらないものである─。トモセの個別ルートにおける“再演”演出には、数年後に同じ物語を再び上演することの意味が詰まっていると思います。

 

 

 私は原作ファンとしてシャレステを観劇したため全体的に出演者の方々を「数年ぶりに見た」のですが、年齢を重ね、役者としての経験を積んでいったことで初演の時と変わっている部分がきっとあるんだろうなと思います。具体的にどこが変わったか、というと分からないのですが、演出面込みでブラッシュアップされている印象はものすごくありました(舞台上での役者をずっと見続けてきた特に演者のファンの方々はもっと分かるのかもしれない)。長い月日の変化だけじゃなく、複数回上演されたことで1公演ごとに言い方、身振り手振りなどの細かな違いもあると思います。

 さらに言えば、観客自体も年数を経て、考え方や価値観は変わります。私自身、4年前と若干異なる環境に身を置いて日々を過ごしており、シャレマニに関しても改めてゲームを遊びなおしたり特典小冊子や漫画などで本編に描かれていない描写に触れたりしたことで作品の捉え方が大きく変わりました。「シャレステ」というパッケージに入っている、ほぼ脚本が変わらない(※多分)お芝居だとしても、その中には確かに「差」があり、シャレマニ5周年の今だからこそ再演をする意味があったのではないでしょうか。本編になぞらえるならば、アステルが長年重視せずにいた「目に見えない思い」「直接言っていないこと」を声の調子や表情、身振り手振りから読み取ってこそ演劇は成立します。同じ台詞/同じ展開/同じ物語でも、演じる人の変化や演技の方針転換、舞台の環境、細かな所作の違いで受け取り方が変わることを、シャレステ再演は再度強く認識させてくれる素晴らしい作品でした。

 

 

 言いたいことは以上なんですが、最後に「キャスト変更」について。これもある意味、シャレマニ内に存在していた要素です。私は再演について「同じ人の演技でも違って見える」と上述しましたが、当のトモセ役は今回、続投ではなく新キャストの三原大樹さんが務めていました。これはめちゃくちゃ表現が難しくて微妙な話(だけど好意的な感想)ですが、「これまでと別人が役を演じることになっても、観客はドラマ(物語)を見続ける」という意味で、“異世界配信”的な構造を有していると感じています。千秋楽で三原さんがおっしゃっていた異世界人=リアル舞台の観客たちという構図は突っ込まれていましたが、実のところポジション的にはその通りで。メイン登場人物10人の怒りや悲しみもエンタメとして“観ている”存在であることは共通していると思います。異世界人と現実の観客が違うのは、キャストの変更に気付けること。そして動作のひとつひとつから情報を拾い上げて登場人物の感情に思いを馳せられること。そんな異世界人の立ち位置だけど、そのものではない観客のポジションにいることを実感させてくれたのは、新(メイン)キャストのお二人だったと思います。年下成分の強い新しいトモセと、見た目も含めとてもハマっている新しい陀宰を見せてくださったことにとても感謝しています。再演のみならず、キャスト変更、観客(異世界人)という本編中に登場した要素について想像を膨らませることができる点でも、シャレステ再演は原作ファンの私に貴重な体験をさせてくれました。

 

 

【おわりに】

 最後に。個人的な解釈になりますが、少し前に、私はシャレードマニアクスを「やり直し(再出発)」の物語であると定義しました。ゲームのスタート画面のBGMは『Starting Over(やり直し・再出発の意)』なんですよね。トモセの告白の“再演”に限らず、誰かを守る「ヒーロー」をやり直す明瀬、自分のルーツを断ち切ってヒトとして生きる決意を固める茅ヶ裂さん。黒幕に「証明」するため、なくした腕と日常を取り戻すため、あるいは心残りの正体を見つけ出すために再びキャストとなった陀宰、獲端、凝部。差し伸べられた手に縋って生きる目的を見つけたものの、新たに出会った「2番目」に心を乱される双巳。兄を見過ごした後悔から犠牲を伴う断罪を覚悟したにもかかわらず、結局大勢が犠牲になる道を選んでしまった射落さん。これまでの全ての罪を抱えて瀬名ちゃんの胸に飛び込んだ廃寺─。攻略キャラたちは皆が皆それぞれのやり直し・再出発を既にしていたり、これからしていく未来が待っているように感じます。それもあって、シャレステの舞台がやり直し(という表現が適切か分からないけれど)となることはまさに「シャレマニ」だなと思いました。

 再び設けていただいた上演の機会に、配信を通してではなく生のお芝居を見られたことは、私の中で忘れられない思い出です。本当にありがとうございました。

天空橋朋花の誕生日祝い(大遅刻)にかこつけて色々語るだけ

  11日前の11月11日は天空橋朋花の誕生日ということで、ここ1年とこれから先の朋花に関わる諸々を書き残しておく。今後毎年、その時々の文章モチベに応じてざっくりとでも朋花について文章に記しておくことで、捉え方の変化を可視化したり、予想の当たりはずれに一喜一憂したりしたい。何はともあれ、天空橋朋花というキャラクター(アイドル)の誕生をあらためて喜びたいと思う。素敵なキャラクターを生み出してくれてありがとうございます。これからも末永くよろしくお願いします。

 ※なお、記事内に書かれている内容は筆者個人の印象・推測・感想・個人的解釈であり、頭の中で思い描いた天空橋朋花像に基づくため、あらゆる意味でご注意ください。またアニメ全編やコミュ等のネタバレを含みます。気にする方は読まないことをおすすめします。

 

天空橋朋花・個人的解釈など】

 多人数アイドルグループ設定のコンテンツで生まれたキャラであるというメタ事情をさておいた上で、当人の資質と目的に沿うならば、個人でアイドル活動をすることも十分可能だったはずなのに39プロジェクトの門戸を叩いた子。周囲の人に一目置かれる環境と、子豚ちゃんたちを導くべきという強い使命感が心の孤独を招いていたのかもしれない。持ち前の観察眼の鋭さで面接時に出会ったプロデューサーに従者適性を見出したことが加入の決め手になったと思われるが、そもそも根底に同年代の仲間を欲する気持ちがあったのではないか、と考えている。

 自分を巡って争ってしまう困った子豚ちゃんたちを統治するために、アイドルという商業システムを利用している。それが朋花の意識的な選択であるかは不明だが、「誰のものにもならないみんなの天空橋朋花」であることを示せるアイドルという肩書きは、結果的に朋花本人を守っていると思う。一般人である時と違ってアイドル/ファンという明確な線引きが存在し、仕事とプライベートの区別が生まれるアイドル活動は、朋花に幾ばくかの自由な時間を生み出していると言える。それも子豚ちゃんを喜ばせるために使っているかもしれないけれど。

 朋花の好きなところは前向きなところだな…と、近年は特に思っている。ミリオンBCにおける朋花の「幸不幸は自分の心持ち次第」という考え方が、そう認識し始めたきっかけ。自分の境遇をポジティブに捉え続けた結果、己を「聖母」と位置付けるようになったのかもしれない(確かグリマスの台詞であった「子豚ちゃんがおイタをするのは叱られたいから」も同様の解釈をしたい)。心の孤独を感じる程度にはネガティブな側面もあった過去と、自分自身の境遇を前向きに受け入れて「聖母」として振る舞う強さが、15歳とは思えないくらいとても気高く、美しいと思う。

 天命に従い「聖母」となったが、天命に従い続けるだけの人生であればおそらく765プロのアイドルにはなっていない。上述した通り、子豚ちゃんを導くだけならば多人数のアイドルグループに所属する必要はないからだ。アイドルになるべくしてなったようでいて、存外そうでもないという見方もできる。特別視される人間が「特別ではない存在」になれる場所は、特別になりたい/もともと特別な─人間が集う場所である。朋花が対等な仲間と同じ目標に向かって過ごす劇場での日々は、私人であった頃には得難い経験ができる特別な場所と言えよう。(団結が謳われがちな765プロの)アイドルになったのは朋花にとっての「革命」。身近に増えた仲間やプロデューサーと共に歩むことで、人並みじゃない朋花が人並みでいられる時間が増えるよう願っている。とはいえトップアイドルになって多くの子豚ちゃんを幸せにすることこそ朋花の目標だと思うので、うまく両立ができるのが一番。

 個人的に望む到達点は、もし朋花がアイドルをやめる時に子豚ちゃんや騎士団が惜しみはしても、朋花の選択を受け入れて温かく見送る世界の到来。朋花を巡った争いが起きず、天空橋朋花という目に見える偶像(アイドル)が不要になり、ファン各々が心に信仰を抱いて生きてゆける未来が訪れたら良いなと思う。これはあくまで指標であって、必ずしも朋花にアイドルをやめてほしいわけではない。選択の余地が生まれるくらい、朋花を取り巻く環境がより良い方向に転じた世界を想像したい。

 

 

【ミリオンキャスティング】

 気づいたら物凄い頑張っていたな…と自分でも驚くくらい、侍女×朋花の組み合わせに可能性を感じていた。支配と献身の両側面を持ち合わせる朋花が、普段は不特定多数の子豚ちゃんに向けている平等の愛を令嬢ただ一人に注ぐ姿はあまりにも見たい光景だった。仕える立場でしかない侍女としてお嬢様のために強く在ろうとする朋花が見たかった。他の配役に名乗りを上げたアイドルも絶妙な面々で、絡みが元々多めな子もいれば、ユニットとして絡んだことが全くない子もいて、どちらかといえば新しい組み合わせの方に心ひかれた。特に真、伊織、響のASと絡む朋花を切望した。

 主に取り組んでいたのはPR・告知画像等の作成と定期投票への参加。毎日何かしら作っていた。目標ができたことでヤケに作っていたが、半分趣味のようなもので、楽しくなければ続かなかった。とはいえ、長いこと接戦が続いたため人生初めて胃がキリキリした。朋花が好きな人たちと同じ方向を目指して何かに取り組む体験ができて良かったと思う。正直21、22年は朋花上位イベント以外のミリシタモチベが極めて低かったので、10周年を楽しめているのはミリキャスの存在がかなり大きい。

 

 

【リベアロ・歌姫トモカ

 ミリキャスの結果に悲しみ続ける暇もなく、エイプリルフールに急にやってきた供給。告知時点では歌姫トモカがアイドルスペースウォーズ続編のヒロインだと思い込んでいたので、予想していた立ち位置や設定と全く異なる真っ当な「悪役」ポジションだったことに驚いた。朋花の配役として実に新鮮な“同情の余地が一切ないやられ役”であり、個人の願いのために力や他人を利用して革命を起こすも、チハヤたちに阻まれて物語から退場し、最後まで悪役としてブレることがなかった歌姫トモカは、個人的に今までで一番好きな配役。聖母アイドル・天空橋朋花が目指す方向性と全く違うからこそ「朋花がこの役を演じてくれて良かった」と感じた一方で、信念の強さやアイドル活動に対して抱いた感情には少なからず通ずる点があると感じた。朋花は子豚ちゃんに喜んでもらうため、歌姫トモカは自信の望みを叶えるのに必要な戦力を集めるために、手段として選んだ「アイドル」活動を純粋に楽しんでいる点において、トモカと朋花は重なると考えている。

 ビジネスライクな関係のまつとも、エイリアンの面々に反感を買われたり舐められている様子、元から従っているナオが新参者の重用にモヤモヤしている発言等、危うげな部分がたくさんあってとても想像が膨らんだ。曲も好みでとにかく最高だった。

 

【Legend Girls!!】

 ようやく来てとてもホッとした。10周年で来なきゃ一生来ない。ミリアニを見終わった今思うと、劇伴や静香の憧れの話を描く前にイベントを開催する意味は大いにあったと思う。コミュもインタビューであらためて「始まり」の思いを振り返るのが逆に新鮮で、特に朋花はアイドルになった理由として「それが最善だと思ったから」と話したのが納得しかなく、とても解釈の一致を感じた。衣装はCDジャケット寄りのシンプルなものになるかと思いきや、黄色を基調としたカラフルで可愛いこれまで朋花が着たことのないタイプの衣装だったので驚いた。とてもかわいい。

 

【ミリアニ】

 朋花のセブンカウントPV選出にどうしても期待してしまい、想像とは違ったし結局のところ程々の出番だったけど描き方のお陰で大満足できた。ありがとう。

 物語においては「導き手」の役割を大いに担っていた。Team1stの1期生3人と役割は同じでも境遇が明らかに違っていて、元より周囲の人々を導く存在だったことが選出理由に関わっているのは明白。アニメという晴れ舞台で(も)トップバッターの一員を担っている姿を拝めたことが何よりも嬉しかった。キャラクター性の掘り下げではなく、舞台上で完成度の高いパフォーマンスを披露する姿を描くことで逆に「アイドル(偶像)」らしさが表現できていたと思う。ソロ歌唱トップバッターを務める翼へのそれとない助言も、ミリアニでテーマになっていた「つなぐ」を体現していて最高だった。

 本編だけでは流石に足りなかったキャラクター性の掘り下げも、ドラマCDで十分すぎるくらい描かれて有り難かった。これまでユニットでの絡みが全く無く、アイドルになった理由がわりと対比的(家族のためor大勢のため)な志保との絡みも嬉しい。年下のクールな志保をからかいつつ、しっかり助言をして、特段事情は聞かずにアイドルとしての在り方を肯定する朋花の描き方があまりにも好みだった。一番星の比喩も素敵で、『Star Impression』のミリオンライブにおける非固定ユニット方式を表現したような歌詞も、歌という「私」で誰かに寄り添う歌詞もすごく好き。ミリシタのイベントではミリアニPとの絡みも描かれて全く不足がないように感じた。

 アニメ全体としては、細かなツッコミどころはあまり深く考えずに見るべき作品であるという点で自分に不向きではあったけれど、全体を通してのテーマ性と描き方は納得できたので最高のアニメ化だった。

 

【次回メインコミュ・SFY希望】

 『Sister』と『Moonrise Belief』の2択。SFYで設定開示をしてほしいという気持ちが強いので希望するのはキャラソンの面が強いMBだが、多分シスターだと思う。スタンドマイク無しの振り付け、赤いドレスで来るならそれでもいい。MBなら青いドレスだと思っていたけど、Star Impressionでほぼ叶った。ドレスは確定だと思うけど、来るならセクシーなやつがいい。でもタイトルから普通に修道女スタイルが来るかもしれない。

 Maria TrapはSFYで幼少期や過去を描くイラストを出していく過渡期に実装された(?)ためか、Pとの胸キュン❤シチュエーションみたいなイラストだったので、さすがに今回は幼少期か家族の初出しをしてほしい。一番可能性が高いのがメモコミュでわざわざ存在を出した厳格な祖父。次いで花咲夜コミュの母親。情報がないけど多分いるはずの父親も気になるが優先度は低い。きょうだいはいないもんだと勝手に思っているので設定生えてきたらビビる。あるいは漫画ミリオンBCのような幼少期からファンに囲まれている姿は描かれそう。でも一番見たいのはやはりご母堂。どうか見せてほしい。幼少期じゃなければ、漫画BNSよろしく作詞家に言及する話になる可能性はゼロと言えないのがちょっと(描き方次第で個人的地雷になりそうで)怖い。ミリオンBCがあんな感じだったので大丈夫だと思っているけれど、これまでの自分の解釈とまるきり違ったモノが出てくる可能性は全然あるので怯えている。来てほしいけど来てほしくない。怖い。でも早く解放されたいので来てほしい。年度内に来る心構えをしている。

 

SSRで欲しい衣装】

 ずっと言っているのは和装。でもメイドもほしいし、パンツスタイルもほしい。衣装の系統がダブルのはさておき、一番来たらヤバいのはウエディング…ありがちな“人並みの幸せ”の象徴であるウエディングドレスを似合うかどうか聞いていた「夕闇の悪戯」がすごく印象的で、そういうモチーフのドレスを着た朋花が、見たい…でもそれこそSRでウエディングは実装しているようなもんなので望み薄。SFYもドレス確約みたいなもんなので、まあ現実的なところとして和装かなと思う。眼鏡も欲しくなってきた。

 

【セカンドヘアカラー希望】

 元の色合いがどちらかと言えば現実寄りなので、ちょいファンタジーな髪色が来そう。予想はストレートに水色。衣装とマッチする色合いであれば良い。

 せっかくなのでガシャのペア相手予想もしておく。残念ながら朋花以外の好きな子たちがあまりにもフェアリーに偏っているため、特に好きな子同士の組み合わせは絶対に見られない運命(さだめ)を負っている。悲しい。まつとも・ともかれの可能性もないので、せっかくなら見たことのない組み合わせが良い。ASとの絡みが見たいので、フェアリーを除けば可能性としてあるのは響…がいちばんアツい。リベアロで朋花陣営だったあずささん、歌織さん、奈緒も良い。ベタなとこで亜里沙は結構可能性が高そう。でもエレナも杏奈も良い…ペアでカードが来るのが美味しすぎる気がしてきた。

 

【新ユニット】

 チーム1stはイベントも終わって、ミリオンシアターバラエティーも2回選ばれたのでしばらく来なさそう。組んでほしいのはやっぱりAS組。孤高の月(過去形)デュオたかともは昔っから期待してるし、真、響、伊織も絡みが見たい。ミリアニでバトンをつないだ翼も最近ちょっとアツい。朋花はそれなりにお芝居イベントに選ばれることが多いので、歌唱メンバーだけど当人そのものの絡みは無かった…的な子たちも多い。新しい輝きに期待したい。それはそれとしてハロエンもそろそろ来てほしい。

 

 

【悪役?令嬢・ゲスト枠】

 第一に静香と同じ侍女の衣装が貰えそうな役どころに期待したい。真公爵に仕える有能侍女でもいいし、ピュア?令嬢可奈のためならなんでもやる(なんでもやる)侍女でも良い。伊織の家の侍女長でも何でもたぶん美味しくいただける。侍女以外でありそうな気がするのは、可奈の取り巻き(令嬢伊織へ直接的に意地悪する役)。三下演技が見られそうで良い。個人的にアリだなと思っているのは花を愛する庭師。

 MTGでASや昴、ジュリア、千鶴さん等々が担っていたサブキャラ役は第一に望むものではないけれど、端役だからこそ見られる姿もあると思うので、少し羨ましいなと思っていた。勿論、投票企画においては狙った配役に当選することが1番良いけれど。おそらく初めて朋花にそのポジションが与えられること自体は、素直に喜びたい。2月下旬が楽しみ。

 

 

【10thライブAct-4】

 最早、何が来てもおかしくないのでコレといった希望もない。オリメンのStar Impressionと、オリメン−1の星屑のシンフォニアは聴きたいかも。10thはずっと配信参加でようやく現地に行けるので、色々準備をして楽しみたい。

 

 

 

 とりあえずこんな感じ。ついでにアカウント最古の朋花語りも公開しておく。※文体がかなりキモい※

→『ともかさまがたり(2018.19年)』(https://min.togetter.com/9t9oh9t)

『天獄ストラグル』に引用される「三瀬川」の和歌について

※1章以降に天獄ストラグル』の最終盤までの※※※※※※重大なネタバレ※※※※※※※を含みます。とりかへばや物語』についても展開を詳しく紹介する場面があるため、両作品について全く知らないまま遊びたい、読みたいという方は読むべきでないことを前置きしておきます。どちらかというと『とりかへばや物語』を知らない人向けに書いています。

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【目次】

 

 

 

【序】

 今年7月末にアイデアファクトリーが発売した女性向け恋愛ゲーム『天獄ストラグル -strayside-』(以下獄スト)において、プロローグでは以下の和歌が登場します。

 

 

 わがために えに深ければ 三瀬川 後の逢瀬も だれかたづねん

 

 

 この和歌は平安後期に作られたとされる男女きょうだいの入れ替わり物語『とりかへばや物語』から引用された作中歌です。

 『デジタル大辞泉』によると「三瀬川」は「三途(さんず)の川のこと」で、「三途の川」については「死後7日目に渡るという、冥途にある川。三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって、善人は橋を、軽い罪人は浅瀬を、重い罪人は流れの速い深みを渡るという」と説明しています。三途の川といえば亡者の着物をはぎ取る奪衣婆や、三途の川の渡し賃(六文銭)などが比較的ポピュラーな話かと思いますが、地獄や六道をテーマにしている『獄スト』では奪衣婆や渡し賃に関するエピソードは(おそらく)存在せず、あえて若干マイナーな三途の川と男女の恋愛にまつわる俗信を採用していました。

 共通ルート序盤では、作中における地獄で「三途の川の阿国さん」という「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来た」伝承があり、地獄で責め苦を受け続けている女性たちがそのエピソードをロマンチックなものとして受け取り憧れを抱いていることが描かれています。その後、主人公・閻魔凜(※記事中では主人公のデフォネームを使用しています)が三途の川のほとりで「わがために~」の和歌を呟くと、「三瀬川でしたら、この俺が貴女を背負いましょうか」といきなり後ろから声を掛けられる─。これが主人公と石川五右衛門(攻略キャラ)とのファーストコンタクトであり、この時点では和歌の意味に特別触れることなく物語が展開していきます。

 

 

 『とりかへばや物語』において「わがために~」の和歌が登場する場面の『新編日本古典文学全集』の注釈(208〜209ページ)では、「女は、最初に契った男に背負われて(三途の川を)渡ると信じられていた」と紹介されています。その上で、和歌の現代語訳を「私との宿縁が深いのでこうして逢えたのです。三途の川の瀬を渡るときもほかの誰があなたを探して背負ったりしましょう。あなたにとって私が最初の男なのですよ」(208ページ)と訳しています。

 この三瀬川にまつわる俗信がどこから出てきたのか、当時の人々が享受するものだったのかについては複雑なので割愛しますが、少なくとも『とりかへばや物語』の中では和歌が詠まれる場面の前後の流れから「女性が初めて契りを交わした(=肉体関係を持った)相手が三途の川で女性を背負って渡る」という俗信があったことを前提にしていると言えるでしょう。『獄スト』では『とりかへばや物語の作中歌に登場する「三瀬川」から読み取れる俗信を物語の構成要素として用いながら、三途の川や各個別ルートで「(男性が女性を)背負うこと」に焦点を当てたり、三途の川に関する別の和歌を引用したりとさまざまな形で使われていました。

 

 

 本記事は『獄スト』で取り扱われた『とりかへばや物語』の和歌がどのような場面で読まれたか、ある程度紹介するとともに、和歌を引用した意味合いや物語への効果を考察していくものです。筆者は個人的な関心から和歌そのものを知っていましたが、『獄スト』内に引用されている和歌の意味が分からなくとも、インターネット検索をすれば和歌の内容は知ることができますし、『とりかへばや物語』の知識がなくともきちんと本編内の描写や少し調べるだけで理解できるものとして仕上げている印象があります。「元ネタを知ることが必須な物語である」と強調する意図はなく、あくまでフレーバーや補足程度の情報としてお読みいただけたらと思います。複雑な設定を比較的わかりやすく説明しようとした結果、原典の内容を忠実に紹介できていない場合がありますので、興味のある方はお好みの現代語訳付きの『とりかへばや物語』を実際に読んでみることをお勧めいたします(とりかへばや物語を題材にした漫画もありますが、改変部分が多いため実際の物語を知る目的には向きません)。基本的に『獄スト』を遊んでいて『とりかへばや物語』を知らない人向けに書いており、両作品の展開を記述しているため、どちらもネタバレなく楽しみたい方向きの記事ではありませんので、ご注意いただけると幸いです。

 

 

 

 

【1.『とりかへばや物語』について】

 『獄スト』の話に入る前に、『とりかへばや物語』についてさっくりざっくりと紹介させていただきます。『とりかへばや物語』は平安時代後期に書かれた作者不詳(性別も不明)の物語で、タイトルには「とりかへ(取り替え)・ばや(…たいなあ、自身の願望を示す表現)=取り替えたいなあ」の意が込められています。『とりかへばや物語』の通称で現存している作品は、元々あった物語の改作であり、オリジナルの物語は残っておらず、『無名草子』という物語評論に存在が語られるのみとなっています。

 

 

 物語は宮中に仕える1人の男のもとに活発で男性的な才能や性格を持つ女の子と、内気で女性的な才能や性格を持つ男の子が生まれたところからはじまります。このきょうだい2人は周囲に性別を誤解されたまま育ち、「性別を偽る」という大きな秘密を抱えたまま宮中で働くこととなりました。この2人に対して父親である男(左大臣)の「2人の性を取り替えたいなあ…」という嘆きが物語のタイトルになっているというわけです。

 最初はうまく性別を隠して過ごしていたきょうだいですが、男装をしていた姫君の妊娠、失踪をきっかけに物語は大きく動き出します。再会したきょうだいはお互いの立場、装束を取り替え、性別に見合った姿に戻ることによって、きょうだいは姫君が帝に見初められたり、男君が大いに出世したりと栄華を極めましたとさ……といった形できょうだいの物語は締められます。このように、『とりかへばや物語』には2度にわたる役割、性別に見合った衣装への「とりかへ(入れ替わり)」が描かれており、序盤の性別の「とりかえ」と、中盤の立場の「とりかえ」を柱に展開していく物語といえます。きょうだいが性別を偽って出仕したことにより、前帝の娘(女東宮)が女装した男君と一線を越えてしまったり、女装の男君のもとへ好色の男が言いよって来たり、男装の姫君が女性であることを隠して結婚した相手(女性)がなぜか妊娠してしまったりと、外見上の性別を偽っているからこそ起きる本来ならありえない展開が次々と起こるのもこの作品の魅力だと思います。

 

 

 『とりかへばや物語』では登場人物の名前がほとんど明かされず、物語の時間軸における役職名等で呼ばれるため、物語の進行に伴って本文中の表記が変動していきます。原典に基づくと誰が誰だかわからなくなってしまうので、本記事では登場人物の名称を統一して表記しています。記事内で使用する名称と物語前半(きょうだいが異性装をしているとき)における相関図は以下の通りです。

 

 

(図:『とりかへばや物語』主要登場人物の相関図と記事内での呼称)

 

 

 

【2.「わがために」の和歌:『とりかへばや物語』の人物紹介】

 本章では『獄スト』の物語冒頭でも紹介された「わがために えに深ければ 三瀬川 後の逢瀬も だれかたづねん」の和歌に関わる『とりかへばや物語』の登場人物3人について紹介します。

 

『獄スト』では「わがために〜」の和歌は作中の登場人物が何度も口にしていますが、どうやら現代語訳はその和歌に限り紹介していないようです。五右衛門√では五右衛門と閻魔凜が死ぬ前に出会っていたことが明らかになります。生前に川で死のうとした閻魔凜を背負って助けてた五右衛門と、五右衛門√最終盤で閻魔凜を背負って家に帰ろうとする五右衛門の過去と現在が重なりますが、さまざまな経験を通して精神的なアップデートを経てお互い変化している。閻魔凜の死は五右衛門が原因でもあり、過去が消えてなくなることはありませんが、その過去を「ともに背負っていく」とまとめたのが構造的に美しいと感じました。

 

 この和歌は引用元の『とりかへばや物語』では図②の宰相中将から四の君に対して詠まれています。ものすごくざっくり言うと、結婚をしている女性(四の君)と無理やり関係を持った男性(宰相中将)が詠んだ歌です。まずは和歌にまつわる『とりかへばや物語』の人物から紹介していきます。

 

 

①四の君(和歌を贈られた人)

 四の君は右大臣家の4番目の娘で、性別を偽っている男装の姫君の妻となった人物です。

大臣家は有力な貴族で、四の君の姉たちは前帝や帝に嫁いでいます。人並外れた美貌と才覚から世間を騒がせている左大臣家の男君(実際には男装をしている姫君)を右大臣は四の君の夫に選びました。四の君は最初こそ「私だって帝と結婚してもおかしくなかったのに」と不満を覚えますが、言葉を交わすうちに男装の姫君の人柄を好ましく思うようになり、肉体関係こそないものの夫婦仲も良好でした。

 もちろん男装の姫君は、自分の性別を四の君には明かしていません。男装の姫君と四の君という女性2人で成る夫婦関係は、本来ならば成立しないことは言うまでもないことでしょう。四の君パパの右大臣は左大臣家の息子として帝に仕えているのが「男性」であることを大前提に娘との結婚を持ち掛けています。この結婚は家の存続や政治的な駆け引きのもとに行われており、娘に良い相手を見繕ってやろうという父親の愛情も当然うかがえますが、基本的に子を為して一族を次世代まで残していくことも織り込んだうえでの婚姻です。にもかかわらず、きょうだいの性別を偽るという重大な秘密を抱える左大臣家はこの縁談を承諾してしまいました。理由は宮中への出仕はなんやかんや成功したからだとか、世の中を知らない四の君は男装の姫君を不審に思わないだろうだとか、色々あるのですが……。子どもたちの幼少期には「とりかえばや」と悩んでいた割に楽観的なこの判断は、のちに騒動を引き起こします。

 そんなわけで、四の君は夫が実は女性であることを知らぬまま、そして夫が全く手を出してこない(正体がバレるので出せるわけがない)ため処女のままでいました。この「夫はいるけれど、処女である」という歪な状況が、「わがために~」の和歌の前提にあります。一応補足しておくと、『とりかへばや物語』は平安時代のお話であり宮中のお話であり家柄や血が重んじられる有力貴族たちのお話であり、通い婚の時代に夫婦が逢うことは基本的に性交を伴うとみられます。「跡継ぎを作ることや性行為そのものに興味がない男もいる」と個性として受け止められることもなければ、「結婚はしたが子を為せない体なので性交をしなくてもおかしくありません」という言い訳も、この物語の中においては通用しません。男装の姫君の極めて「誠実」な振る舞いは、世間知らずの四の君は騙せても右大臣や周囲の人物に知られれば異常なことをしている─つまりは普通の“男性”らしくないということ─は踏まえておきたいポイントです。

 

 

②宰相中将(和歌を詠んだ人)

 宰相中将は式部卿宮という貴族の息子で、男装の姫君より少し年上の好色な男性です。男装の姫君とおおよそ同時期から宮中に仕え、男装の姫君と同じように若くして出世頭であり、男装の姫君と並んで美男子として宮中を賑わせてきた人物となります。

 宰相中将は物語中で男装の姫君と並べられ、比較され、対比構造的に描かれています。男装の姫君は真面目で女性になびかない一方で、宰相中将は女性や恋愛が大好きな“好色”な男性でした。容貌は双方美男子ですが男装の姫君のほうが優れているとされ、移り気で女性を想わない時期がない極端な色好みであることが玉に瑕と宮中の女性たちに思われています。この「真面目」と「好色」という対称的な2人の人物造形は『源氏物語』の薫と匂宮に重ねているという研究もあり、『とりかへばや物語』が『源氏物語』の影響を大いに受けていると考えられる一要素です。男装の姫君は基本的に宰相中将の恋愛体質にあきれている様子が物語前半の随所にみられますが、彼らは仕事仲間であり、同年代の友人でもあり、作中で唯一男装の姫君との日常的な交流が描かれていることは特筆すべき点です。

 四の君の結婚前、宰相中将には特に気になっている意中の女性が2人いました。それは右大臣家の四の君と、左大臣家の娘(=女装の男君)です。2人の姫君はどちらも「とても美しい」と噂になっており、宰相中将はどうにか一目見たい、お逢いしたいと思っていました。しかし移り気が過ぎて警戒されていたのか、ついぞその恋は実らぬまま四の君は男装の姫君の妻になってしまいました。男装の姫君が女性に言い寄らない真面目な人柄であることをもちろん宰相中将は知っているので、「俺の方が先に四の君のことが好きだったのに!」と羨み恨む気持ちがあったことが、和歌の詠まれる前提にあります。

 

 

③男装の姫君

 和歌を詠んだ相手、贈られた相手ではありませんが、この和歌の背景を語るにあたり欠かせない人物である男装の姫君についても少しだけ紹介します。

 男装の姫君は左大臣の娘であり、女装の男君とは異母きょうだいの関係にあります(※双子ではありません)。幼少期から外遊びや勉強に意欲的で、「左大臣家のこちらの母親から生まれたのが女の子だと聞いていたが、聞き間違えていたようだ」と勘違いされ、周囲から男の子扱いされてきました。宮中で働くようになってからも才覚をいかんなく発揮し、帝からも一目置かれる存在として活躍します。宰相中将の項目で紹介した通り、とてつもない美男子なので宮中で働く女性たちの評判の的になっていましたが、真面目(…というより実際は女性)であるため、基本的に女性に対して自らの意思でアプローチをかけることはなく、高貴な身分の女性には付き合いで多少和歌を詠み交わす程度でした。評判の美貌は女性だけではなく男性の帝や宰相中将からも注目を集め、「このような美しい男と血がつながった左大臣家の姫君もまた美しい女性であるに違いない」と、男装の姫君を通して女装の男君の容姿を想像する姿が描かれています。2人は逢ったことのない姫君の姿を思い浮かべますが、実際に左大臣家の姫君であるのは目の前にいる男装の姫君当人であるという構造的な愉快さが描かれています。

 異常なスピードで出世し、右大臣家の四の君と結婚するなど悩み事のない順風満帆な人生を送っているように傍から見える男装の姫君ですが、心の中は「世づかぬ(世間並みでない、普通じゃない)身」である自分自身の境遇を嘆き続けていました。男性に交じっても違和感なく、何なら男性より優れた資質を持ち合わせて政治を動かすことに長けていた男装の姫君は、悩み事が何一つなさそうな恵まれた生活を送る一方で厭世的な気持ちを強め、一刻も早く世俗を捨て出家したいと心の底で思っていました。宮中に出てしばらくした時点から男装の姫君は男性ライフを満喫しているわけではなく、苦悩の日々を過ごしています。

 

 

 長々と登場人物について説明しましたが、男装の姫君と四の君は女性同士の夫婦であり、男装の姫君と宰相中将は同僚兼友人であり、宰相中将は四の君に言い寄っていたが男装の姫君と四の君が結婚したことで失恋した、という点だけわかっていれば十分だと思います。

 

 

 

 

【3.「わがために」の和歌:『とりかへばや物語』の場面紹介】

 次に、和歌が詠まれた状況をさっくりと紹介していきたいと思います。

 

  人物紹介の通り、四の君が男装の姫君の夫となったことで、宰相中将の恋は一度終わりました。実のところ四の君と男装の姫君の婚姻は左大臣家と右大臣家の結びつきを強めるための政略結婚的な側面が強く、現代のように2人が直接対面して恋に落ちて結ばれたわけではありません。そのうえ男装の姫君は本来の性別を隠していたため、子どもは望めないことを知っていながら左大臣家を騙す形で夫婦関係を続けていました。

 ある時、宰相中将は友人である男装の姫君のもとを一人で訪ね、宿直で不在だったため帰ろうとすると、琴の音色が聞こえてきました。琴を弾いていたのは、自分の手が届かぬ人になったと諦めていた四の君。どうにも気になってしまい忍び込んでその姿を初めて見ました。四の君は人に見られていると気づいておらず、月を眺めて和歌を詠みます。その和歌は結婚をして幸福のさなかにいる人が詠むものと思えない悲しみをにじませていました。男装の姫君のただ一人の妻であり、とても大事にされていると聞いていた四の君に、一体何を悲しむことがあるのか。去りがたくなった宰相中将は部屋に押し入って四の君と対面し、こらえきれなくなった想いを吐露し、半ば無理やり契りを交わしました。このとき近くにいた四の君のお世話係の女性が宰相中将の闖入をおおごとにせず、誰にも知られないよう隠す道を選んでしまいます。

 宰相中将はこの一夜に四の君が処女であること、つまり夫の男装の姫君が一切四の君に手を出していないことを知りました。この物語において処女は契りを交わせば絶対に分かるものとして描かれており、さらに肉欲を伴う恋愛を至上としている傾向があるので、「夫婦だろうが性交してるとは限らないだろう」的なツッコミは一度置いておきたいと思います。

 

 

 夜明けまで四の君とともに過ごした宰相中将は、離れたくないと思いながらもバレるとまずいので帰る際、四の君に対してその場で和歌を詠みました。それこそが「我がために えに深ければ 三瀬川 のちの逢瀬も 誰かたづねん」の和歌でした。宰相中将と四の君が契りを交わしたのは、たまたま男装の姫君が不在で、たまたま屋敷の警備がザルで、事なかれ主義のお世話係が不法侵入と性的暴行をとがめず手助けをした偶然によるもので、本来起きない、起きてはいけないことです。宰相中将にとって奇跡のような有り得ない出来事であり、次の機会は二度と訪れないかもしれない。「私と貴方が結ばれたのは、縁の深さによるもの。三途の川で女性を背負って渡るのは初めて契りを交わした男であるというのなら、夫婦として今世で結ばれなかったとしても、三途の川のほとりで再会できる」という思いが和歌に込められていると考えられます。

 

 

 この和歌は「今世では二度と会えない」ことを嘆き悲しむものではなく、あくまで「三途の川で会える」こと、つまりは再会を強く示す内容になっています。この出来事の後、宰相中将は二度と四の君に会えなかったわけではなく、お世話係の手助けにより四の君と何度も逢瀬を交わします。部屋を出ていく前に宰相中将は、四の君に逢うために協力が不可欠な世話係の女房と四の君本人に次の機会を約束させました。つまり宰相中将は、この偶然得た好機を一度きりで終わらせる気はさらさらなかったということです。和歌自体は三途の川での再会を約束していますが、あくまで例えであり、後の再会を示唆するものとして使われていると捉えています。

 宰相中将と四の君が不倫以外の何物でもない、周囲に絶対にバレてはいけない秘密の逢瀬を重ねた結果、四の君は懐妊してしまいました。四の君の不倫や男装の姫君の本当の性別を知らない右大臣家はこのオメデタを喜びますが、左大臣家側は四の君の子どもが男装の姫君の子どもであるはずがない(男装の姫君は女性だから)ことを知っているため、大きなショックを受けます。男装の姫君当人は特に、「四の君と契りを交わした男は、四の君が処女であったことを不審に思うはず。その男から自分はどれだけおかしな人間であると見られるだろう」と恥じ入り、以前のように四の君に愛情を注ぐこともなくなり、余計仏門に入りたいと思うようになります。

 

 

 余談ですが、レイプまがいのことをされた人妻の四の君は宰相中将のことをどう思っていたかというと、情熱的な思いに少しずつ心を開いていった様子がちょくちょく見受けられます。男装の姫君は後に宰相中将と肉体関係を持ちますが、その際に宰相中将のもとに送られてきた四の君からの文を見る機会がありました。文には「上に着る 小夜の衣の袖よりも 人知れぬをば ただにやは着る」と和歌が書かれていました。内容は「夫(男装の姫君)の昇進よりも、隠れて関係を持った貴方のほうが気になります」といったところで、宰相中将に対する愛情がうかがえるものでした。四の君にとって、肉体的な関係を持たずとも男装の姫君と過ごす日々は特別なものでしたが、一心不乱に行動で愛を伝えてくる宰相中将に根負けするように、少しずつ心を開いていきました。

 

 

 以上が「わがために~」の和歌が詠まれた状況や背景となります。改めてまとめると、他人のものとなってしまった想い人に対して、初めて契りを交わした自分との縁深さや死後(あるいは今後)の再会を強調するのが『とりかへばや物語』における「わがために~」の和歌でした。『とりかへばや物語』においては横恋慕的な状況下で三途の川の俗信が使われており、直接的に言ってしまうと人妻を寝取った、無理やりレイプをしたということなので、手段として肯定できるものではありません。

 

 今回の話には関係ありませんが、『とりかへばや物語』にはもう1首、「三瀬川」の俗信をもとにした和歌が登場しており、写楽√で引用されています。この和歌は二度目の「とりかへ」で男装をやめた姫君に対して恋焦がれる帝が詠む和歌であり、「わがために~」の和歌と対になるものです。写楽√の最終盤で出てくる「三瀬川 後の逢瀬は知らねども 来ん世をかねて 契りつるかな」(獄スト内では和歌について「貴女にとって俺は初めての男ではないらしいから、三瀬川で逢えるかは分からない」「だからせめて、来世には逢瀬が叶うように契っておこう」と写楽が現代語訳をしている)も『とりかへばや物語』を踏まえると大変興味深い引用であると感じています。気力があれば後日加筆するか、別記事として投稿したいと思います。

 

 

 

 

【4.「わがために」の和歌:『獄スト』における引用箇所と出雲阿国

 次に、『天獄ストラグル』において「わがために~」和歌が引用された意図について触れていきたいと思います。

 

 獄ストにおいて「わがために~」は以下の箇所で引用されています(※抜けがあるかもしれません)。

 

①物語冒頭の閻魔凜の独白。直後に五右衛門登場。

 

②五右衛門ルートの閻魔宮での閻魔大王小野篁の会話。

 

③五右衛門ルート終盤の出雲阿国閻魔大王小野篁がいる場で五右衛門について話す中で引用。

 

④五右衛門ルート終盤の閻魔凜と石川五右衛門の会話。

 

 

 いずれの場面においても、基本的に作中では閻魔凜が「死んで三途の川の畔に立つ女」であり、石川五右衛門が「女を迎えに来た生前愛し合った男」であると示唆されていると考えられます。

 

 ここで作中おける「三途の川の阿国さん」の伝承「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来た」の真相について触れておきたいと思います。物語冒頭における伝承は「生前愛し合った男」という婉曲的な表現を使用していますが、各ルートにおいてお七が連呼するように、実際は「女性が初めて性交をした男性」を示していることが明示されています。そして、ここからが若干ややこしいのですが、実のところ出雲阿国の初めての相手は那古野山三郎ではなかったことも与那ルートで明かされます。つまり、

 

伝承→「死んだ出雲阿国が川の畔に立った時、生前愛し合った男(=初めて性交をした相手=那古野山三郎)が迎えに来た」

事実→「死んだ出雲阿国が川の畔に立った時、生前愛し合った男(=那古野山三郎≠初めて性交をした相手)が迎えに来た」

 

ということになります。伝承と事実が異なる理由は、「生前愛し合った男」の解釈に幅を持たせたかったからなんじゃないか、というのが個人的な見解です。「わがために〜」の和歌に限らず、天獄ストラグルは三途の川の俗信や「背負うこと」を全攻略キャラのルートで物語に落とし込んでいますが、「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来る」という俗信に閻魔凜と各キャラクターの関係性を当てはめるとき、「初めて性交をした相手」と受け取った方が良い場合もあれば、「生前(順番も肉体関係の有無も抜きにして)愛し合った相手」と受け取った方が良い場合もどちらも存在します。攻略キャラクターの大半は三途の川の伝承を当てはめるときは単純に「愛した男が女を背負う」という俗信から物語を展開している部分が多く見られます。「背負う」というモチーフを各ルートでどう表現しているかについては割愛しますが、各ルートの描写の違いを見比べるのも一興かと思います。

 

 

 

 

【5.「わがために」の和歌:両作品の共通点】

 本記事の2、3章では、「わがために えに深ければ 三瀬川 のちの逢瀬も だれか尋ねん」について、元ネタである『とりかへばや物語』でどのように和歌が登場したか紹介してきました。

 「わがために~」の和歌は親友(見た目は男だが実際は女)の妻の処女を無理矢理奪った直後の場面で登場し、死後あるいは今後の再会を誓うような形で詠まれています。4章では獄ストにおける「わがために~」の和歌の登場箇所を挙げ、主に五右衛門√や五右衛門の登場するシーンで使われていることを確認しました。獄ストでは「三途の川の阿国さん」の噂と、実際の出雲阿国の境遇が異なるという設定にすることで、三途の川で男性が背負う相手を「初めて契りを交わした女」「生前(順番も肉体関係の有無も抜きにして)愛し合った女」のどちらとも受け取れるようにしています。これらを踏まえた上で、『獄スト』でなぜ『とりかへばや物語』の和歌を用いたか、両作品の展開や登場人物の共通点はなんであるのか、改めて考えていきたいと思います。

 

 

 『獄スト』において、「わがために~」の和歌は、引用箇所の多さから分かるように五右衛門に対応しているとみられます。五右衛門は攻略キャラ5人のうち4人の√をクリアしないと√が解禁されない攻略制限キャラです。五右衛門は「俺は今でも……───あんたを愛してるよ」(共通√)、「いやー別に俺としては目合うのは大歓迎なんだけどさ」(写楽√)などと一人で呟いたり、無茶をして閻魔凜を傷つけた与那に本気で怒ったりと閻魔凜を物凄く気にかけている様子が物語中に幾度も描かれており、プレイヤーが「記憶のない閻魔凜と生前深い仲の人だったのだろうか」と想像することは極めて容易な描かれ方をしています。物語序盤に登場する「わがために~」の和歌も、五右衛門と閻魔凜の関係性を匂わせる要素の一つであると考えます。

 泡沫と呼ばれる存在の閻魔凜には生前の記憶がありませんが、記憶がないだけで人間として生きていた時代があります。五右衛門は閻魔凜が生前に出会っていた想い人の「大五郎さん」であり、五右衛門√ではこれまで各√で匂わせられながらも明確な情報がなかった2人の過去が明かされていきます。

 

 五右衛門は脱獄した罪人たちを捕まえるために閻魔大王が選抜した4人のうち1人であり、遅かれ早かれ閻魔大王の思惑によって2人は再会を果たすこととなるのですが、閻魔宮で対面する前に、閻魔凜がひそかに憧れていた「三途の川の阿国さん」の噂の舞台である三途の川のほとりで偶然出会ったのは、「閻魔凜と五右衛門に深い縁があったから」こそではないでしょうか。宰相中将が四の君に対して“後の再会”を強調した和歌を詠んで実際に再会できたように、閻魔凜が「わがために~」の和歌を一人呟いた後に登場する五右衛門は、「閻魔凜にとって初対面の男ではなく、縁の深さゆえに再会した男」になると思います。

 

 

 各√で五右衛門と閻魔凜のつながりを感じさせる描写を用意している作り手には、プレイヤーに五右衛門と閻魔凜の関係性に気付いてほしい、ずっと気にし続けてほしいという意図があるように感じられます。「わがために~」の和歌を引用するのは、和歌の意味や元ネタとなる作品の展開を知っているプレイヤー(筆者含む)からすると、物語開始直後から「五右衛門は閻魔凜にとって“昔の男”ですよ」と答えを言っているようなものです。もちろん物語冒頭から五右衛門と閻魔凜の隠された関係性を察しても、そもそも共通√や各個別√でもっとわかりやすく示唆する場面はあるので気づくタイミングが早くても特に意味はなく、最初からニヤニヤできるぐらいのアドバンテージしかありません。

 たとえ五右衛門と閻魔凜に関係性があると分かっても、恋人だったのか、両片想いだったのか、体の関係があったのか、五右衛門√で説明されるまではわかりません。物語における三途の川の伝承も、背負ってもらうための条件がひじょうに曖昧であり、都市伝説やおまじないに似た信憑性が必ずしもないものであるため、和歌に関する知識があるがゆえに「どこまで」関係が進んでいたか筆者きは掴めなかったので、誰もが知っているわけではない古典作品からの要素の取り入れ方としてバランスがいいと感じました。

 

 

 補足しておくと、この和歌と三途の川の伝承は本来「肉体的な関係を持つこと」に重きが置かれていますが、石川五右衛門は「閻魔凜の初めての男」というには二人の関係性はピュアなもので、生前は精神的にも肉体的にも結ばれていません。事実として五右衛門は死んだ後に三途の川で閻魔凜を背負えていないわけですから、五右衛門は「わがために〜」の和歌を詠んだ宰相中将の境遇と重ならないという点は重要であると考えます。あくまで乙女ゲームの構造を見たときに、他の攻略キャラクター4人と比較して「主人公のことを生前から愛していた男=初めての男」であると言えるのが石川五エ門です。基本的に乙女ゲームは物語開始地点からよ~いドンで主人公と攻略キャラクターが仲を深めていきますが、近年のアイデアファクトリー(オトメイト)作品には物語開始時から主人公のことを好きだった設定のキャラクターがチラホラ見受けられます。「わがために〜」の和歌はそんな「最初から主人公のことが好き」なキャラクターの優位性(もともと縁が深かったこと)を表現するために使われていると推察できます。

 

 

 

 「わがために~」の和歌は五右衛門と閻魔凜の関係性を示すのに適していると考えますが、五右衛門は結局女好きでも女房がたくさんいたわけでもないため、「宰相中将に似ている」とは言えないと思います。色好みという点で考えるならば、一番近いのは写楽です。

 作り手が実際に意識しているか定かではありませんが、『とりかへばや物語』の宰相中将と「わがために~」の和歌の状況に最も近い『獄スト』の登場人物は、“名執四鹿”であると考えられます。宰相中将は、友人である男装の姫君の妻であり、自分が以前から想いを寄せていた四の君と無理やり契りを交わしました。一方で四鹿は旧知の仲である石川五右衛門の想い人だった閻魔凜を無理矢理犯して殺しています。この惨たらしい事実と三途の川の伝承を踏まえると「閻魔凜の初めての男」は、肉体的関係の観点から見れば名執四鹿ということになるのではないでしょうか。四鹿も実際に三途の川で閻魔凜を背負ったわけではありませんが、結果的に四鹿は脱獄囚を捉えるために人間界を訪れた、生前の記憶をなくした閻魔凜のもとに再び現れることとなり、こちらも五右衛門と同様に深い(因)縁ゆえに死後も再会したと言えます。また、名執四鹿はハリズアーカイブのメモリーで「五右衛門は昔からいい奴」「俺が欲しがるものは譲ってくれる」「だから一番のお気に入りも譲ってくれていいはず」と述べており、「俺が欲しがるもの=一番のお気に入り=閻魔凜」と受け取ることが一応可能です。もしかしたら名執四鹿も閻魔凜を好きである可能性を示唆する記述と言えるでしょう。この両片思いの五右衛門と閻魔凜と、五右衛門への愛憎と閻魔凜への慕情が可能性の一つとしてうかがえる名執四鹿を『とりかへばや物語』に当てはめると、「夫婦である男装の姫君(五右衛門)と四の君(閻魔凜)が仲睦まじく過ごしていたのに、四の君と肉体関係を持って横恋慕で二人の仲を台無しにする宰相中将(名執四鹿)」の図に重なる印象を受けました。

 

 

 

 

【結】

 本記事では『とりかへばや物語』における「わがために〜」の和歌を紹介しながら、『獄スト』にて和歌を扱った意図などを探ってみました。「わがために〜」の和歌は物語開始地点からすでに五右衛門と主人公の間に何らかの関係性が築かれていたことを示唆するために使用されています。また、五右衛門の関連人物である名執四鹿は友人の想い人を無理やり奪うという意味で宰相中将と似ている部分があり、もしかしたら四鹿の設定は『とりかへばや物語』の宰相中将を参考に作られたかもしれない…と思いました。

 『とりかへばや物語』は“入れ替わり”という要素が取り沙汰されることが多いですが、三瀬川の俗信を取り入れた古典文学であることも特徴の一つであると考えられます。『獄スト』は『とりかへばや物語』以外にも三途の川に関する和歌を作中に登場させ、古典的な要素を絡めながら物語を形作ったという点でとても興味深い作品に仕上がっていると感じました。『とりかへばや物語』は個人的に大好きな作品で、和歌も物語の展開に合った素敵な和歌が揃っているので、好きなゲームジャンルである乙女ゲームに取り入れられていたことが個人的にとても嬉しかったです。『天獄ストラグル』、ありがとうございました。

 

 

【参考・引用作品、資料】

・石埜敬子、三角洋一『新編日本古典文学全集39 住吉物語 とりかへばや物語

アイディアファクトリー天獄ストラグル -strayside-』

風真考(要約)

※風真考(https://nananananigashitai.hateblo.jp/entry/2022/04/04/223000 )を10分の1程度にまとめた要約です。


【序.風真玲太を考える】
 『ときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart 』のメインキャラクターである風真玲太は、主人公(プレイヤーキャラ)と幼稚園時代に出会い、イギリスへの引っ越しで離れ離れになってからようやく再会できた高校1年生までの約10年間、主人公と一緒に過ごした思い出や恋心、願い事を抱え続けたキャラクターである。プロローグから主人公に対する好意が明確に示されている点においても異彩を放っているが、キャラクター性を「モラハラ」「ヤンデレ」と評するプレイヤーも少なくない。本記事はゲーム本編の描写に基づきながら風真を生み出した制作陣の意図や、恋愛シミュレーションゲームの攻略キャラクターとしての問題点などを考察していくものである。


【1.変わらないのは誰?何?】
 1章では考察の前段階として、プレイヤーが風真を攻略することで到達する告白エンディングの返答直前に「変わらなくおまえが好きだ」と述べていることから、風真の核でありもっとも伝えたいことは「昔も今も主人公が変わらず好き」であると主張した。しかし、風真の想いの一途さを印象付けるにあたり、本作ではスチルイベントで「風真は昔も今も変わらない主人公が好きである」ことを説明している。この時、“変わらない”ものは「風真(の思い)」から「主人公(自身)」にすり替わっており、本来告白で伝えたかったはずの重点がぶれていることを指摘した。また、特定のスチルイベントを経た風真は真告白エンディングで「思い出と今がぴったり重なる」と過去との不変性を強調することから、風真が重きを置いているのは過去の主人公の姿であり、変化より不変を求めていると考えた。


【2.変わる/変わらない“おまえ”らしさ】
 2章では風真がテキスト中で言及する「主人公らしさ」が「過去と現在の性格的な共通項」であるか、「今後も変わらない本質」であるか検討した。風真が指し示す「おまえらしさ」は、園児や小学生のような幼さや一生懸命取り組む姿勢について主に述べていると考えられる。無論、風真自身が理解しているように人間は成長、変化していく生き物であり、過去や今好きな部分が今後も不変である保証はない。一方で風真は特定の選択肢において、改修などが行われた城や刀も「本物に変わりない」という考えを示している表現から、主人公にたとえ変わった部分があったとしても本質は失われないことを示唆していると捉えた。これらのことから、風真の認識上では「おまえらしさ」は主人公の本質的な部分であると想像できる。
 しかし、個人の本質は他人からは捉えがたいものである。さらに風真が昔出会った主人公の姿と今の主人公の姿を比較して「思い出と今がぴったり重なる」と内心一喜一憂している限り、判断基準が過去にもとづいていることは明白だ。主人公の本質を見つめていると捉えるには、風真に関する描写は過去を強調しすぎていると言える。


【3.風真の見つめる“今”とは?】
 3章では、ホタルの住処におけるデート選択肢の返答の一つ「いつも今が一番いい」という台詞から、風真は本来「主人公と共に在る今を大事にしている」キャラクターだった可能性を提示した。そのうえで、過去を持ち出すことが多い風真が見つめる“今”や“変化”の正体を仕事関係の描写やパラメータ要素から探った。
 風真が高水準のパラメータ条件を求めてくるのは、「昔から主人公が好き」という前提を考えると理不尽で、ありのままの主人公を好きでいるとは言い難い。仮に風真が努力する主人公に好感を抱いているのだとしても、「魅力以外の全パラメータ150以上」になるほどの頑張りしか受け入れないのは不可解である。風真が骨董品に対する価値観をそのまま主人公に適用している場面は作中でたびたび描かれているが、それはつまり過去に見抜いた主人公の潜在的な価値を主人公自身が理解して、能力を磨くことを期待しているということではないだろうか。その結果が他キャラと境遇の異なる風真の「パラ萌え」ではないか。それと同時に、己の真価を発揮するための努力を怠り、自分自身の価値に低い値段をつけている現在の主人公に対して厳しく、好感を持たない(=パラ萌えをしない)可能性がある。
 風真は「過去の思い出に基づく不変」も、「過去に見出した主人公の価値に基づく変化」も求めており、過去への回帰と同時に未来に対する期待を主人公へ向けている。不変と変化、過去と未来をないまぜにした理想像を“現在の主人公”に求めるのは、「今が一番いい」と述べる男の姿勢としてふさわしくない。


【4.ときメモの特徴と主人公の位置づけ】
 本章では『ときめきメモリアル』が有していた特徴について再考した。ときメモは体験性を重視するシミュレーションゲームに位置付けられている。シミュレーションゲームは基本的に、作り手がイベントや選択肢を用意し、プレイヤーが主人公の行動を選択することで物語が紡がれていく構造を有する。イベントの発生時期や順序、プレイヤーの行動選択次第で作り手が想定していない物語が作り出されるのがときメモの特徴だ。
 また、GS4までEVS(簡易版を含む)が残されていることから、プレイヤーが主人公に自分の名前を付けたりオリジナルの名前を付けたりして遊ぶことが可能となっている。この点も踏まえつつ、物語の過程をプレイヤーの操作に委ねる構造を加味すると、主人公はプレイヤーごと、周回ごとにまったく別人であり、3年間の高校生活を経て中身がまるきり異なる人間になると言える。過去作における『ときメモ』は、プレイヤーという役割を通して「主人公=プレイヤー=あなた」とする構造が根底にあったと考えられる。
 主人公と「あなた」が似て非なる人格を有していようとも、プレイヤーの役割を担う「あなた」は、物語の過程で行動選択をすることで物語に影響を与え、主人公(の一部)として作中に存在する。ときメモは告白エンディングという結果のみを見るならば数値的な条件さえ満たせば攻略キャラと結ばれるゲームだが、プレイヤーがたどってきた過程は“私だけが体験できた高校3年間”であり、独自性がある。プレイヤーの行動選択で攻略キャラに変化が生じ、物語が展開する特有のゲーム性は「攻略キャラと主人公の恋」をプレイヤーに体験させ、ゲームを遊んだ人間に没入感ややりがいを味わわせることができる魅力的な恋愛ゲームを作り出していた。


【5.風真と主人公、そしてプレイヤー】
 本章ではときメモの特徴を踏まえた上で風真の造形について考えた。風真が告白エンディングで伝える主人公を好きになった理由は、制作陣が用意した「設定」や、作中描写によって固定化・統一化された「主人公らしさ」に基づく。風真が計5種類の告白エンドで重きを置いて語るのは過去であり、GS4で時間をかけてプレイヤーが体験してきた高校3年間(現在)ではない。主人公は本来プレイヤーや周回の数だけ存在するが、GS4の主人公像は作り手や作中のテキストによって固定化されている印象が強い。異なる過程をたどることで各プレイヤーのもとで紡ぎ出された「主人公らしさ」より、作中描写によって似たような性格に収束する「主人公らしさ」が優先されている。風真と主人公の恋は作り手が用意したアドベンチャー要素(設定やスチルイベント)で成立しており、各プレイヤーがシミュレーション要素による行動選択で作り出した独自性はないがしろにされている。
 風真の物語はときメモにおいて特徴的だった「主人公=プレイヤー=あなた」の図式が崩壊しており、主人公はプレイヤーキャラとして正常に機能していない。本来密接であるはずの主人公とプレイヤーは、主人公の極端な鈍感さや風真の心中描写(プロローグ)によって切り離され、プレイヤーがどのような行動を取ろうとも主人公像は作り手によって固定化される。そしてパラメータ条件と好感度さえ満たしていれば、風真は「昔も今も変わらない主人公」に「昔も今も変わらずに好き」だと告白することになる。GS4が公式サイトで明示していたはずの「『はばたき学園』の高校生」の“あなた”は作中に存在せず、プレイヤーの行動選択は風真にほとんど影響を与えない。風真の恋は行動選択をプレイヤーに委ねる過去のときメモの構造を踏襲している割に機械的で画一的であり、体験性を重視するシミュレーションゲームとして致命的な欠陥を抱えている。


【結.『こうだったらいいのにな』】
 風真が主人公に対してもプレイヤーに対しても押しつけがましいキャラクターに仕上がったのは、「ぴったり重なるんだ、思い出と今が」を代表とする固定化・統一化、作り手の意図する主人公像への収束が原因と考える。結論に代わり、最後に個人的に「こうだったらな……」と思う風真像や主人公像を挙げた。
 風真の「主人公の変わらない部分が好きである」という要素をキャラクターに盛り込みつつ主人公の設定をプレイヤーに押し付けすぎないようにするならば、「変化・成長し続ける姿が変わらない」とするか、「全プレイヤーが持ち合わせる性質(能動性)」を盛り込むべきではないか。成長し変わりゆく主人公の姿勢や、ありとあらゆる成長(特定のパラメータに特化した成長を含む)を遂げる可能性を好ましく思うように設定し、主人公の努力を素直に肯定できるキャラクター像になっていたら、と思わざるを得ない。過去作ではプレイヤーが主人公を操作して攻略キャラに積極的にかかわっていく能動性を「主人公らしさ」に取り入れることで、主人公とプレイヤーの一体感を持たせていた。一方でGS4の主人公は極めて鈍感で無条件で好かれるような人物像のため、積極的な行動に主人公の自覚的な感情が伴わない。
 また、主人公のパラメータが示す「あらゆる姿に成長する可能性」は、全プレイヤーに共通する主人公の“本質”になりえると考える。風真が目利きの才能を持っているというのなら、『魅力以外150以上』のみを条件にせず、変化や成長する主人公の可能性を見抜いていたことを前提にさまざまな可能性(パラメータ)にたどり着いた主人公に物語終盤で言及する仕様を備えたら良かったと思う。主人公のみならずプレイヤーに対しても好意を伝えるようなキャラに仕上がっていたら、ときメモGSシリーズ再誕作にふさわしい王子になっていたかもしれない。
 なぜ風真が自分の意に沿わない主人公の変化に寛容的ではないキャラに仕上がっているか考えてみると、風真の性格設定が実際に用意された物語の展開とかみ合わないからだ。告白エンディングにおける風真の「昔も今も変わらずにおまえが好き」という主張は、初期設定とみられる「古風な考えを持つ」「天邪鬼」「女の子より優位に立ちたい」設定と組み合わせることで「昔も今も変わらないおまえが好き」に歪められたと推測される。現在の風真の造形は主人公のポテンシャルを「自分と結ばれる理想の主人公像」に収束させる言動で構成され、幼い頃に見つけた“主人公の可能性”を結果的に狭めている。不機嫌さを露骨に表に現さず、あらゆる主人公の姿(可能性)を肯定したり、過去を振り返ってばかりだった風真が現在の主人公にしっかりと目を向けたりするまでの過程がイベントや台詞を通じて描かれていれば、風真はもっと多くの人に愛されるキャラクターになれたのではないだろうか。

風真考

【序.風真玲太を考える】

 前作発売から11年の時を経て、ようやく発売された『ときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart』。今作のメインキャラクターである風真玲太のエンディングをコンプしてから4ヶ月経過してもなお、私はいまだ悩み続けては疑問やら描写のおかしな部分について延々と振り返る日々を過ごしています。正直なところ、恋物語を楽しむという乙女ゲーの本分において風真というキャラクターは私の期待にはまったく応えてくれませんでした。その一方で、「乙女ゲーの攻略キャラ(=プレイヤーキャラの恋愛対象)」としてのチグハグさ、作り手の意図の読めなさ、そしてメインキャラクター位置のわりには敬遠、あるいは嫌厭される傾向にあるところと、本編の行動がギャグとして昇華されがち(ギャグとして見てあげないとキャラに向き合いがたい部分がある)なところはとても興味深いなと感じています。良くも悪くも……どちらかといえば悪いですが、これまでにない新感覚を味わえるキャラクターとして、風真は私に鮮烈な印象を残しました。 

 

 個人的に、風真というキャラクターを構成する描写や設定は、GS4の制作陣が描きたかった恋物語、あるいは風真というキャラそのものを表現する上で最適とは言えないのではないか、と考えています。この描写、この展開で本当に良かったのだろうか?こうだったらヤンデレだのモラハラだのと一蹴される事態は起きなかったのでは?もしくはもっと単純に、ここがこう違えば私好みだったろうな……と思う部分は少なくありません。描かれてない部分や私の好みにハマらない部分を曲解して理想の風真像を自分の中に作れば楽になれるのだろうけれど、なるべく本編の描写に重きを置きたい。まあ、本編の描写で「嘘だ〜」と思っている部分が全くないわけではないですし、本編の描写に納得できていないからこそモヤモヤした感情を抱えているのですが……。根本的には本編に目を向けて、本編に基づく風真“像”を探っていきたいというのが私のスタンスです。

 販売された作品の中に備えられた設定やイベント、システム等々は、たとえアプデがあったとしても今後大きく変わることはなく、私自身変わってほしいとは思っていません。変わらないことを前提とした上で、今あるときメモGS4と風真について考えを巡らせています。

 

 ただ、風真について考えるうえで、一度制作陣の意図を想像してどのように風真が描かれていれば自分は受け入れられたのかを考えて、文章としてきちんと残してみるのも悪くないのではないかと思い至りました。作り手の意図を探っても正解は見つからないですし、自分が当時プレイ中に感じたモヤモヤ感をすべて解消できるわけではないのですが、思考の整理も兼ねて自分なりの推測を残しておきたいと思います。

 今回私が言わんとしていることは大まかに分けて①作り手の意図の推察②実際のゲーム内描写の問題点や不整合な部分③それらを踏まえた“こうだったら良かったのに”という個人的で勝手な願望─となります。いずれも個人の考えを述べているだけで、それは結局“私の理想の風真像”の披露にはどうしてもなってしまいますし、作り手の意図を完璧に読み取れていると思っていないことを前置きしておきます。文章には作り手の意図が間違いなくそうであると断定しているように読み取れる表現が含まれる場合がありますが、けして自分の意見が誰にとっても正しいものであるとは主張してはいません。あくまで主観です。全体的に現行の風真、あるいは作品そのものに対して批判的な立場で語っているため、その点ご理解した上でお読みください。また、全編における風真のイベント内容や台詞のネタバレや、葉月珪のエンディングや七ツ森実の3年目終盤以降の内容のネタバレが含まれるためご注意いただければ幸いです。

 

 先に結論を述べておくと、風真ルートで最も伝えたいメッセージ性は「昔も今も変わらずにおまえが好き」であると、私は考えています。にもかかわらず、キャラクターの言動と本編中のイベント等は「昔も今も変わらないおまえが好き」を表現しています。その結果、エンディングと本編中で伝えたいメッセージにブレが生じ、内面が変わらない部分を指して「おまえらしさ」としている描写が目立ってしまいました。この「不変」表現は、『ときめきメモリアル』という「学園恋愛シミュレーション」作品における、プレイヤーが操作によって主人公を変化、成長させていくゲーム性に全く適していません。エンディングでは「変わらないおまえが好き」という主張が前面、というよりも全面に出ているため、ゲーム本編で紡がれてきた3年間よりも風真は過去を重要視しているように映ります。それは同時に、各プレイヤーの“行動選択”によって形作られた多種多様な主人公の姿よりも、作り手が用意した“設定”に基づく固定された主人公の姿を重視するということです。さらにいえば、風真が現在の主人公の変化に目を向けたとしても、それは過去の風真が目利きによって見つけていた「この先の未来でますます磨きがかかるであろう主人公の光り輝く価値」が現実のものとなっただけで、風真の意に沿う想定内の変化に過ぎません。つまりは告白エンドに必要なパラ条件がある限り、“風真が昔から好きだった部分は変わらずに、風真が昔に見出した価値通りに変化を遂げた主人公だから”教会で告白したとも言える描き方になっています。

 風真の言う「おまえらしさ」が主人公の有り様の幅を狭めるものではなく、あらゆる成長を遂げる主人公の可能性に対して「おまえらしさ」を感じ取れるキャラクターであったならば、約十年前から一途に主人公に思いを寄せる風真が語る「おまえらしさ」や「変わらなくおまえが好き」という思いは説得力のあるものになったのではないか、と考えています。

 

 


【1.変わらないのは誰?何?】

 制作陣は、風真というキャラクターにおいて「昔も今も変わらずあなたが好き」を描きたかったのだと、私は思っています。なぜかというと、真告白や通常告白の主人公の返答直前の台詞でそのように語っているからです。真・通常告白では主人公の返答の直前、告白におけるクライマックスの決め台詞で風真は、「変わらなくおまえが好きだ」と主人公に伝えています。

 他にも主人公を長年想ってきたことを強調する台詞は多く、例えばホタルの住処の恋愛の悩み(攻略本でいう4番)では他の男子と主人公がホタルの住処に二人で訪れるかもしれないことを危惧し、他の誰と来ても構わないことを伝えつつ、「でもな、俺は何も変わってないからな。昔も、今も、明日からも。おまえの気持ちが、もしも変わってもだ……」と宣言しています。ここでの風真の変わらないものは、主人公の心変わりを不安視する2文目から「風真の気持ち」であると受け取ることができます。(そもそも相思相愛と決まっているわけではないのですが)。このように、本編中で描写されている「昔も今も変わらずあなたが好き」が風真ルートの本質であり、風真や作り手が一番伝えたかったことであり、その本質的な部分に肉付けをして出来上がったのが本編なのだろう、というのが私の推測です。

 風真玲太は、幼い頃に抱いた主人公への恋心によって孤独な環境でも自分を奮い立たせることができた。恋心が原動力となって今まで頑張ってこられた。高校生になってようやく再会できたとしても、「おれたちがいつも元気で幸せで、ぜったいにけっこんできますように」という風真の願い事が絶対に叶うとは限らない中で、主人公が自分を選んでくれてようやく恋が実った。長年の思いが報われて本当に嬉しい……という結果の部分だけを見れば、風真は本当に報われて良かったなあと感じられます。

 

 GS4において、作り手は「今も昔も変わらずにおまえが好き」という結末に主人公と風真、そしてプレイヤーを導こうとしていたと考えられます。しかし、風真の想いが不変である理由を描くための手段として用意されたのは「主人公が約十年前と変わらない姿を見せる」イベントの数々でした。その傾向がとりわけ顕著であるスチルイベントは、真告白エンディングの条件にもなっており、真告白ではスチルイベント(現在)と対応する過去の思い出を繰り返し振り返っています。その結果、「風真は昔から変わらず主人公が好き」という風真の物語における核たる部分は、「風真は昔から変わらない主人公が好き」という方向にずれてしてしまったのではないでしょうか。それはあまり、手法として適当ではなかったと思います。

 「変わらずに好き」と「変わらないから好き」は、似ているようでかなり違います。本来、風真の思いが「不変」であることと、主人公が「不変」な部分を持ち合わせていることは必ずしもイコールではありません。なぜならば、前者と後者では変わらないものを持ち合わせる主体が風真(の気持ち)と主人公(自身)で異なるからです。確かに、相手が昔と変わらなければ変わらないほど昔と同じ気持ちを保てると思います。それでも、相手が昔と様変わりしていたとしても、いま現在そばにいるその人をあらためて好きになるということだってありえるはずです。

 

 しかし、告白エンディングで時間を割いて語られるのは過去の印象的なエピソード3点(芋掘り、運動会、かざぐるま)でした。風真は真・通常、逆転、グループ告白(2種)の計5種類の告白エンディング全てにおいて、主人公にまつわる思い出として「幼稚園のさつま芋掘り。あの日の泥で汚れた全開の笑顔」「幼稚園の運動会で、負けた俺と一緒にいてくれた泣き顔」「教会で俺のかざぐるまを吹いてる、真剣な顔」を思い返しています。そして真告白では、3つの過去の記憶と対応するスチルイベントを振り返った上で、「思い出と今が“ぴったり”重なる」と述べ、思い出と地続きであると風真が実感した「今」しか言及しません。

 主人公が昔と変わらないという直接的な描写は、ADV『焼き芋サプライズ』にもみられます。スチルイベントが発生した裏側で風真は「10年の時間なんてなかったみたいだ。(略)会うたびに、10年前と今をピタッとくっつける。あいつの魔法」と考えていたことが明かされており、「ぴったり」や「ピタッと」と強調するくらい過去と今に重なる部分があることを示しています。このことから、風真の中では現在より過去、変わっている部分より変わらない部分の重要度が高いのであろうと推察できます。

 

 補足しておくと、ぴったり重なると風真が示しているのはあくまで「現在の出来事」と「過去の思い出」であり、「二人の関係性が変わらないこと」を指しているとも捉えることは一応可能です。しかし、そうだとしても過去の思い出と今が重なって嬉しいのは風真一人であって、主人公はかざぐるま以外の思い出を忘れており、プレイヤーもプロローグ以外は回想を“本編中で”見せてもらえていません(ADVは除く)。その台詞を言わせて主人公にどう思わせたいか、プレイヤーにどう思ってもらいたいのか疑問です。主人公、プレイヤー両方に対して思い出を共有していないため、「よくわからないけれど、風真くんが楽しそうならそれでいいか」が作り手の想定していた反応なのかもしれません。

 仮に二人の関係の変わらなさを示しているとしても、真告白エンドでは主人公の反応が「昔と同じ」であると言っているので、“思い出の中身よりも思い出の中の主人公がどういった人物であったか”という点に重きを置いていると思います。結局、同じ≒変わらないということだろう、と私は判断しています。

 

 やや余談ですが、風真のメタ的な話題として「風真は(GS3P発売から数えて)9年間新作の発売を待っていたシリーズファンの隠喩が込められている」という噂があります。これは作り手側が発信したことではなく、ファンの想像で10月末からすでに言われだしていました。これについては私も意図的に設定していると思いますが、どちらかといえば「GSシリーズの概念を風真に詰め込もうとした」と言ったほうが適切だと個人的に思っています。GS1で登場した絵本の王子と姫の物語になぞらえるように風真を外国に追いやったり、過去作の王子(メインキャラクター)と似通った設定やイベントを用意していたりする部分も含めて、とても作為的な造形だと感じています。(ついでに言えば、風真にまつわる鐘と坂は本家ときメモシリーズのオマージュも含まれているかもしれない)。

 私がどうして「風真は長年新作を待ったシリーズファンのメタファー的存在」が制作陣の意図した造形であるとするよりも、「風真の造形にはGSの概念が盛り込まれている」程度にとどめておきたいかというと、「変わらない貴方が好き」を主題とし、GSシリーズファン=風真・作品=主人公の構図を当てはめてしまうと、まるで「プレイヤーはゲームに不変を求めている」と制作サイドが勝手に想像しているかのような印象を受けるからです。

 過去作を踏襲しているGS4は、システム自体はお馴染みのもので、新しい要素は取り入れつつ、基本的に過去作と変わらない仕上がりになっています。確かにときメモGSシリーズが好きな人たちは、システムの大幅な変更を求めてないと思います。ただ、過去作では新作や移植時に「事故チュー」や「親友告白」「三角関係モード」などに挑戦していました。導入した新システムがおおよそプレイヤーに受け入れられてきたのにもかかわらず、そしてGS4自体にも新要素は存在するにも関わらず、さも不変が顧客の願いだと作り手側が決めつけている(とファン側が憶測で決めつけている)のはいささか乱暴だと思います。作品そのものの変化/不変を定めるのではなく、作り手、プレイヤー、そして風真の「愛する思いは変わらない」としたほうが現状に寄り添ったメタネタとして受け入れられるのではないでしょうか。

 発売前の制作陣のインタビュー等々を見るに、ファンが新作を待つ間、作り手も続編を出せるまで待っていたのだと思います(実際どうかは知りませんが)。「GS3から4発売までの空白期間は、GS4で描かれる再会までの期間と重なるね」くらいの認識でいたいですし、コンテンツの実情をうかがわせるメタネタはあくまでフレーバーであり、風真というキャラクターの解釈に取り入れるには(二次元の物語に三次元が介入しすぎて)ノイズだと思います。本編で第一に描くのは現実における(限られた人数の)古参ファンへの感謝ではなく、風真と主人公の恋であってほしいです。

 


【2.変わる/変わらない“おまえ”らしさ】

 風真が過去に重きを置いた発言を作中で頻繁にしているということを踏まえた上で、今度は風真の言う「おまえらしさ」について考えてみたいと思います。風真はことあるごとに「おまえらしさ」を語り、9年間も離れていたはずの主人公を誰よりも理解している素振りを見せています。このテキスト内で表現される主人公「おまえらしさ」とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。デート中の選択肢に反応した台詞を中心に振り返っていきます。なお、本編でうかがい知れるのはあくまで“風真から見た主人公”の表現であり、主人公が風真の言う通りの人物であると思っていないことを強く強調しておきます。

 

〈風真の発言から見る主人公像〉

天然(校門前)/生まれつき純真・天真爛漫(初詣)/誠実でクソがつくほど真面目(生徒会)/人を吸い寄せる体質(煉瓦道)/流行りものに敏感(波止場)/好奇心のオバケ(海水浴)/珍獣(動物園)/掴みどころのない奴(天守閣)/なんでも一生懸命(天守閣)/見た目はフワフワして優しい感じなのに実際はやばい(コーヒーカップ)/何でも首つっこむ、好奇心が服着て歩いてる(スキー)/昔のことを覚えてない点含めておまえ(花見)/いつも思ったこと言ってるタイプ(ホタル住処)/お気楽さん(ホタル住処)/緊張感がない(博物館)/絶妙にズレてる(博物館)/食い意地が張ってる(各種会話)/昔っからのめり込む(テスト反応)/良くも悪くも普通じゃない(テスト反応)

 

 他にも色々あるかと思いますが、風真の発言から受け取ることができる「テキスト上の主人公像」は、おおよそ以上となります。褒めているのかイジっているのか判別がつかない内容が多い印象です。これらをざっくりまとめると、「真面目で一生懸命でさまざまな事柄に関心を持つ好奇心の塊であり、どこかズレた言動が多いフワフワした部分もある、お気楽で天然な女の子」なのかなと思います。主観で述べるならば、高校生になっても幼さが滲み出るタイプのように感じました。

 なお、小学一年生の主人公について風真は、「小さいおまえはおどおどしてて」(花見ときめき会話)や「小さい頃のおまえはもっと縮こまってた」(ホタルの住処、春ときめき会話)と話しており、その点については変化が見られることを指摘しています。ただ、唯一幼少期が主人公視点で描かれているプロローグでは大しておとなしい女の子にも見えないので、せめて最低限は回想に反映されていれば良かったのにと思いました。

 

 上記の主人公の特徴を話すとき、風真はあまり「おまえらしさ」という単語をそのまま用いません。風真が“らしさ”を持ち出すときは「らしくない」という形でよく使われているように見受けられました。例えば、主人公がデート中に真面目でしんみりとした返答をする時(冬の海やホタルの住処・秋)、風真は「らしくねぇこと言うじゃん」と反応します。主人公は「クソがつくほど真面目」ではありますが、風真の中では真面目な受け答えは「らしくねぇ」らしいです。またスキー場やスケートでは風真に教えを請う主人公に対して「らしくない」と言います(スケートでは、「もっとジタバタすんの期待してんだけど?」と付け加えています)。このほぼ同じ受け答えをする会話は1つしかないのなら気に留めませんが、複数箇所に及ぶため意図的に同じ返答を用意していると考えられます。ここから推察すると、普段は真面目なことを言ったりしないし、たとえ慌てふためくことになったとしても失敗を恐れずに挑戦してみるのが風真の“考える”主人公らしさだということです。

 

 デート中に主人公の特徴を述べたり、「らしくない」と言ったりする言葉が現れる風真ですが、とりわけ「らしさ」を語るのは、成績に対する反応です。ごくごく一般的な初見プレイの流れを考えると、1年目7月の期末テストでは「まあまあ」の成績を取る人が多いはずで、そこで風真は「おまえって、成績だけは平凡だな」「おまえらしくないっていうかさ、面白くない」と言い、最後に主人公を励まして立ち去ります。この1年目7月の段階では余程効率的にプレイしないかぎり全員登場していないとみられ、はじめから登場している“昔から主人公のことが好きな幼馴染”の風真がテスト後に現れる可能性はそれなりに高いと言えるでしょう。そのようなタイミングで他人の成績に「おまえらしくない」「面白くない」と言えるのは一体どうしてなのでしょうか。なぜ、成績が平凡であることを主人公らしくないと風真は表現するのでしょうか。主人公の“何”を“いつ”見て“らしさ”を判断しているのでしょうか。テスト結果の反応は“昔から主人公のことが好きな幼馴染”というキャラ設定から受ける印象とのギャップがあらわになり始める場面であると個人的に考えています。

 風真がまあまあな成績を「おまえらしくない」「面白くない」という理由は、好感度や成績によるテスト結果反応の差分でうかがい知ることが可能です。友好状態でまあまあな成績を取ったときに風真は「良くも悪くも、普通じゃないのがおまえの魅力だろ?なんで勉強だけ普通なんだよ」と述べています。つまり、普通状態での言動の理由は“結果があまりにも普通だから”。好き状態でまあまあ成績(風真いわく「煮えきらない成績」)の時は、主人公の「普通すぎたかな?」という問いに「だな」と返しているのも共通しています。また、風真のパラ条件的になかなか見ることのできない好き状態で成績が悪い主人公に対しては「こんなの、おまえじゃない」とまで言い、「なんでも真剣に取り組むのが、おまえだろ」と叱咤激励するところも興味深い点です。

 ここから考えると、風真は主人公の成績が上位であることに「おまえらしさ」を感じているのではなく、一生懸命頑張った結果が成績上位という形に現れることを期待していると考えられ、「なんでも一生懸命」と評するテキストにつながるように思いました(ただ、良くも悪くも、と言うわりにはパラ条件で絶対に学力パラを求めるのは疑問。「悪くも」は最終的に認めないのはなぜなのか……)。

 ちなみに風真は好感度が上がるほど「結構いい成績」ですら満足しなくなります。では1位を取るとべた褒めしてくれるかというとそうでもなく、自分の成績と比較したり、のめり込みすぎることへのお小言を言ったり、冗談で「気分は良くない」「気に入らない」と話したります。主人公の成績に対して悪く言うまでではないにせよ、風真の思う主人公の姿勢に合った成績を取るまで好意的な反応を見せないのであれば、流石に1位になった時ぐらいはカタルシスを十分得られる台詞差分を用意したら良かったのではないでしょうか。

 

 ここまで本編中に描かれ、風真が言及している主人公の「らしさ」を振り返ってきましたが、次に疑問となるのは、これらの特徴的に言及される「らしさ」は果たして「昔から変わらない主人公の性格の共通項」なのか、あるいは「今後どんなことがあっても根本的に変わることのない本質」なのかという点です。

 前者だと思っている場合は、小学生から高校生になる間に変化が見られなかったとしても、主人公の「らしさ」がこの先変化する可能性はゼロと言えないため、風真が将来も変わらず主人公を好きでいられるか疑わしいと思います。なぜならば上段でまとめた通り、風真が魅力を感じている「主人公らしさ」はある意味「子どもらしさ」とも言える部分だからです。高校生はまだ未熟な子どもなので小学生・幼稚園時代と共通する部分があってもおかしくありませんが、大人になってからも主人公はあどけなさをそのまま有していられるのでしょうか。子どもらしさをなくさないことは絶対的に良いことなのでしょうか。子どもっぽい部分を「その人らしさ」と決めつけて変化がみられた場合、風真はエンディングで言うように主人公のことを“変わらず”好きでいられるのでしょうか。

 そもそも、人間は時間経過による変化がまったくない生き物ではありませんし、その人の家庭環境や経験などによっていくらでも性格は変容していくものだと思います。「昔と一致する(=変わらない)から好き」という主張をしているとするならば、今は良くても今後も変わらないといいね、としか思えません。子どもっぽさを「その人らしさ」と認識しているきらいがあるので尚更そう感じました。このように、「今と昔が同じだから好き」という考えは将来の変化を考慮していないため不適当だと考えられます。つまり、風真自身は“主人公らしさ”を「今後どんなことがあっても根本的には変わらない本質」という将来においても変わることのないものとして捉えている、というのが私の考えです(本人の意識としては本質だと思っているが、実際それが主人公の本質であるとは限らないという意味を含みます)。

 

 本編の描写があまりにも過去を強調しているためやや見え難いように個人的には感じてしまいますが、「人間は変化する生き物である」ということを風真自身がきちんと理解している描写は点在しています。ゲームの発売と同時に販売が始まったDLC『入学お祝いセット』に付属する約3分間のボイスドラマでは、主人公との再会前に祖父の蔵に寄り、蔵や自分の部屋が9年前と変わっていないことに触れた上で「あいつも変わってないといいな…変わってないわけ、ないか…」と独り言を言っています。変わらない部分に対しての言及が多い風真も、基本的な考え方として「人は変わる」、そして「主人公もすでに変わっているだろう」を大前提に持っているからこそ、スチルイベントなどで主人公の変わらない部分が感じられたときに高揚感を覚えているのでしょう。

 ボイスドラマは、風真が「人は変わる」を前提としていることを一番分かりやすく知ることができる貴重な供給ですが、購入しない限りゲーム内に存在しません。有料DLCで主人公が変わっていないわけがない……と半ばあきらめている心情を描いても、すべてのプレイヤーが見られるわけではないため効果的でないと思います。

 

 本編でいえば、大接近を成功させた後の自宅前で「あのな、10年ぶりに会ったけど、俺もおまえも、あの頃のままじゃないんだぞ」と言っており、お互いが昔のままではないことを主人公に伝えています。また、ホタルの住処(春)のときめき会話では「縮こまってた」小学生時代から「お気楽さん」になった主人公に対して、風真が「ちょっと嬉しくもある」「俺のいない間に少し、変わったんだなって」と変化を受け入れつつも、「これからも、お互い少しずつ変わっていくんだろうけどさ。ずっと一緒にいて、気が付かないのがベストかもな?」と、変化を受け入れているようでいて、これからの“内面の”変化に対してはやや消極的に考えている反応を見せています。

 変わることをそこまで良く思ってない節は、4人グループ結成時に七ツ森がアツアツアーチ上に昇格した際に発生する日常のひとコマイベントでも描写されており、ここでは他人が主人公を変化させることへのモヤモヤ感が感じ取れます。やむを得ぬ事情で引きはがされた約9年間で既に変わってしまった主人公のことは何かと理由を付けて受け入れようとしていますが、実際はなるべく変わってほしくないのではないか。なぜならば昔と変わらない部分が主人公らしさだと思っているから……とも考えられます。

 

 次に、風真は主人公らしさを「今後どんなことがあっても根本的には変わらない本質」と実際に捉えているかについて検討したいと思います。

 風真は真告白に必須のイベントなどでよく骨董品に対する価値観や“モノ”が適正に評価されてほしいという思いを語っています。なぜわざわざ真告白エンドの条件に骨董品関係のイベントが含まれているかというと、「骨董品に対する考え」が「主人公に対する考え」の隠喩だからだと考えられます(主人公に通ずるモノの“価値に対する価値観”については【3】で後述します)。主人公のことを直接言っているわけではありませんが、主人公と歴史あるものをリンクさせているのがはばたき城展示コーナーにおける選択肢への反応だと思います。ここでは“実際に変化した物”に対する風真の捉え方を聞くことができます。

 

 展示コーナー1回目の来訪時の選択肢では、風真祖父の寄贈品に対して主人公が「あの刀、本物かな?」を選ぶと、印象最悪になります。「本物」という表現が気に触ったようで、「本物ってなんだよ?もし500年前の刀が300年前に作り直されていたら、それは偽物なのか?」と、不機嫌になりつつも熱く語っています。風真の言い方から察するに、2人は磨り上げ(刀を切り詰めて長さを変えること)や再刃(焼けた刀に再度焼き入れを行うこと)された刀を見ながら会話しているとみられます。いずれも元々の刀の魅力とされていた刃紋が損なわれたり、刀の制作者名や制作年月日などが記された部分が失われたりと、元の刀“そのまま”であるとは言い難い状態になっているのだと考えられます。過去から姿形が変わったり、過去の思い出を断片的にしか覚えていなかったりする主人公を、作り直されながらも“本物(そのもの)”であることに変わりはない物に重ね合わせていたからこその憤りなのでしょう。

 同様に、展示コーナー3回目でときめき会話にならない場合の印象が悪い反応では「お城自体は再建されたものだよね?」とたずねる主人公に対して風真が「いいか?何度も何度も改修や修繕を重ねてること自体が歴史なんだ」と話しています。変わっていくことも歴史のうちであり、“その城である”という本質は残っていると言いたいのだと推察できます。

 

 この展示コーナーの会話群は、冬の海デートのときめき会話で風真がまくし立てる比喩的な内容に似ています。冬の海で風真は、砂を踏みしめてできた二人の足跡が波にさらわれて消えていくことについて、「一度刻まれたものは、見えなくなったとしても無にはならない」「おまえがいくら昔のことを忘れてたとしても、無くなったわけじゃないってこと」と、少し不機嫌になりながら言っています。この時の風真は会話内容から、主人公が所々しか覚えておらず記憶からほとんど消えている過去の思い出と、波で消えた足跡を重ね合わせていると推察できます。たとえ主人公が忘れていても、自分が覚えている二人の思い出は消えたわけじゃないと信じたくてムキになっているのでしょう。この比喩的な会話が言い表すものは、なぜ風真が自分と同じ思い出を記憶していない(共有してくれない)今の主人公にあそこまで固執するのか、という問いの答えにもつながると思います。

 それはつまり、風真が好きなのは思い出の中の主人公ではなく、過去の印象的な思い出の中で見出すことができた主人公の本質(と風真が思っているもの)だからということではないでしょうか。本質は消えてなくならず、変わらずに在るはずだと信じているからこそ、主人公に当時の記憶がほとんどなかったとしても主人公が主人公であることに変わりはないからこそ、風真は主人公を諦めないのだと思います。アンティーク品の販売や価値ある物の保全などに携わってきた経験から培われた「たとえ姿形が変わっても、そのモノ(物・者)がそのものであることに変わりはない」という本質を捉えるような考え方を風真が持ち合わせていることが分かります。

 

 ここまで風真の言葉から、主人公らしさの正体が「主人公の昔と今の共通項」か「今後どんなことがあっても根本的に変わらない本質」か探ってきました。どちらかといえば後者が風真の思っていることに近いのだと思います。風真は主人公が実際に持ち合わせている「その人らしさ」をいつも見つめていて、だからこそ主人公を好きになった…のかもしれません。

 しかし、風真は主人公が「らしさ」を今も変わらずに備えているのか確かめるために、昔と照らし合わせている様子が多々見受けられます。学園祭の生徒会1年目の「昔っから変わらないよ。誠実でクソがつくほど真面目なところは」や好き以上でのテスト1位時反応の「ただ、昔っからおまえのめり込むからな」に共通する“昔っから”というワードからうかがえるように、“昔の主人公”というサンプルと、現在の主人公を比較している場面は多いと言わざるを得ません。家デートときめき会話では、子ども部屋のままの自室から主人公に話を繋げて「それに、おまえが俺の想像以上に昔のまんま」と言っています。昔のまんま、というのは「外身じゃなく、中身のこと」だと言います。その後に部屋が「昔のまんま」だという主張を撤回(成長した主人公のいる部屋は子どもの頃になかった感情を抱かせるため)して、「ご近所のかわいい、ただの女の子の友だちってだけじゃない」と自分から見た主人公の位置づけと自身の感情の変化を語っていました。

 離れていた期間が長すぎるがゆえに、そして作中での描写が難しいという理由で、風真が現在の主人公に「らしさ」を感じるきっかけは“幼稚園児や小学1年生の頃の思い出と重なる言動を間近で見ること”に限定せざるを得ないことは納得できます。しかし、風真は“主人公の本質を好きになった”と断言するには、現行の本編は「昔のまんま」「ぴったり重なる」と本編で語るように、あまりにも過去を強調し過ぎていると感じました。風真が過ぎ去った昔と今を重ねているとプレイヤーに捉えられるのは、作り手の本意だったのでしょうか。昔のままであることをわざわざ口にして、実際そうであると喜ぶのは、そのくらい風真が「主人公の本質と思った部分」が過去の自分の思い込みか真実か気にしていたことの証左に他なりません。過去をさんざん思い返す点は強調の度合いを間違えていると思います。

 

また、【4】で後述しますが、制作陣が用意したテキスト上で描写されるだけの、主人公自身も覚えていない思い出にその人らしさがあると言われても正直納得できません。プレイヤーの分身である主人公の描写としても理解できませんし、キャラクターいち個人として主人公を見るにしても過去を押し付けられすぎていて不可解です。風真の言葉だけではなく、プレイヤーに二人の関係性を作中で説明する努力をする(ときメモ2のように過去編を用意する)か、過去を何度も掘り返さずに今に“しっかりと”目を向けるキャラクターを作り上げてほしかったです。

 


【3.風真の見つめる“今”とは?】

 風真はことあるごとに過去のエピソードを持ち出してきて、“過去のまま変わらない”主人公という理想像に恋心を抱いているかのような印象を受けますが、【2】で述べた通り、人間の変化を軽視しているわけでなければ、今の主人公が変化することを全く無視しているわけでもないと思います。

 ホタルの住処(秋)に二度訪れ、一番いい季節を聞かれた際に「今がいいな」と答えると、風真は「ああ、俺も。いつも今が一番いい。な?」と主人公に向けて言います。極めて比喩的なため確定ではありませんが、この会話では頬を赤らめて「いつも今が一番いい」と話しているため、ホタルの住処と同じように主人公に対しても同じように思っていることを示唆していると見られます。「今」というのが一体どの「過去」と比較して良いと思っているのか不明瞭ですが、この会話を聞くと風真は今を最重視しているように感じられます。それは9年間という引き裂かれた時間を経てようやく再会できた主人公への思いが、ともに過ごすたびに強まっているからこそなのかもしれません。本来、制作陣が描きたかった風真は、主人公と共に在る「今」を大事にしているキャラクターだったのではないだろうかと強く思わせてくれる台詞です。

 すべての台詞を把握、記憶することは不可能なため他の例が思いつきませんでしたが、風真が「今の主人公」との関係性を大事にしている様子は随所に見られると思います。ただ、過去と変わった主人公のことを見るとき、風真は“今”よりも“未来”を見つめているのではないか、と思うことが多々あります。このため、風真が見つめる「子どもの頃のままじゃない主人公」について、パラメータや風真の仕事の観点から述べていこうと思います。

 

 風真は普通の好感度で、早ければ1年目から見られるような全く特別じゃない台詞で上記のように「今が一番いい」と語っていますが、他の描写と比較すると正直不可解な部分が多いです。なぜならば、風真には従来通りのパラ萌え(告白条件のパラメータに沿う成長をしていると好感度がプラスされる)の概念が他キャラと同じように適用され、告白条件となるパラメータが「魅力以外150以上(補正なしの場合)」という高水準を最終的に求めてくるからです。別の言い方をすると、ありのままの主人公を好きでいるとは言えない側面が本編内で描かれていることから、今を最重要視しているという言葉を素直に受け入れるには矛盾が生じていると思います。

 風真は【1】で述べたように「今も昔も変わらない主人公が好き」であり、【2】の考察に沿うならば過去に基づく「主人公の本質=おまえらしさ」に特段ときめきを見出しています。それは本来「ありのままの主人公が好き」と言ってもいいはずで、主人公に不変のみを求めるならば能力も特段上げる必要はないはずです。高校入学当初の主人公は平均50に満たない程度のパラメータを有しており、風真の語る思い出の中の主人公も頭が良いという直接的な表現は見られません。だからこそ余計、出会ってすぐの1学期末テストの結果を受けた「おまえらしくない」という評価は疑問です。初期パラメータが表すように、主人公は基本的に過去から優秀であるとは言い難いスペックを入学当初は有しており、そのようなありのままの姿を風真は肯定しません。

 この点に関しては、【2】の中段で述べたように、努力や一生懸命頑張ることを風真の考える「おまえらしさ」と定義づけているからであると考えることは可能です。何かに打ち込んで、結果的に好成績を収める様子を風真は「らしさ」と受け取るのだと思います。自分に見合う主人公は高パラメータの優れた女性だという考えから条件が高く設定されているのではなく、あくまで「過去の主人公は一生懸命頑張る女の子だったから」、「変わらない主人公は今も同じく一生懸命頑張ることができるはずだ」という思考からくるものであるならば、辻褄“は”合うと思います。実際の主人公がそういう人物であるかというと分からないので、風真が語るぶんにはいささか決めつけのように感じますが、ときメモGSが作中の描写でのみ主人公が形作られるゲームだというのならそれでいいのでしょう。なお、入学当初の主人公は基本的に突出したパラメータがなく(最高60)、つまりは特に何にも打ち込んでいる様子がみられません。主人公がゲームスタート時点で何かに一生懸命になってきたわけではないように見える時点で、一生懸命の結果である優秀さが「主人公らしさ」であるとも言えないのが難点です。

 

 天守閣デートのときめき会話が示すように、「なんでも一生懸命」であることが主人公らしさ(このときは望遠鏡にはしゃぐ主人公に対して言っている)だというのなら、実のところ、関心を持って打ち込むものはなんだっていいのではないのでしょうか。勉学運動芸術流行気配りを軒並み磨かなければいけないのは何故でしょうか。部活動を極めたり、学業で1位になったり、あるいはもし主人公が他にも3年間を通じて打ち込みたいものが生まれたのならば、その特定のパラメータに特化するのも「一生懸命」の成果に違いありません。一生懸命がむしゃらに取り組むことに好意的な感情を抱くというのなら、無駄に高いパラ条件を設定せずに頑張ったことを認めたら良かったと思います。

 そうでないということは、つまり風真のパラメータ条件が表現するのは「満遍なく頑張っていること(※魅力は除く)を望む」、もしくは「なにか一つ(魅力以外)でも落ちぶれることを認めない」であり、「なんでも一生懸命」は「何事においても一生懸命取り組んで一定以上の成果を出すまでに至ること」に限られます。「好奇心のオバケ」である主人公の果敢でがむしゃらでひたむきな姿、そしてその好奇心を結果にきちんと結び付けられることにこそ、風真の「好き」が詰まっているとも考えられます。

 しかし、好奇心旺盛な人間はあくまで初動が凄まじいのであって、関心を持った物事に対して本当に真面目に打ち込むか、新たな関心ごとを見つけに行くかは結局本人次第です。何事にもチャレンジすることと、何事でも好成績を収めるまで極めることは違います。好成績を収めることにより「一生懸命」は証明されますが、テストに関わるようなパラメータで好成績を収めることだけが「一生懸命」の形ではないと私は思っています。風真が一生懸命な主人公を好きでいることは理解できますが、やはり魅力以外平均的に高水準を求めてくる謎は解消できないので、いったん次の話題に移りたいと思います。

 

 「ありのままの主人公を求めているわけじゃない風真」を考えるに当たり、“昔から主人公が好きであるにもかかわらず”主人公に高パラメータを求めてくる謎に関する話題として語りたいのは、真告白の条件に含まれている「風真の仕事に関わるイベント」群についてです。風真の真告白条件イベントは9種類もあり、以下のように分類できます。

 

①思い出と今がぴったり重なる

・「ヤキイモサプライズ」→幼稚園の芋掘りの再現

・「トラウマ体育祭」→幼稚園の運動会の再現

・「橙色の待ち人」→かざぐるまの願い事の再現

②風真、夢叶う

・「宝石箱の中で」→主人公と一緒に修学旅行

・「願い事、ひとつ」→主人公と一緒に店番

③風真の仕事

・「チャリティーオークション」→父親の仕事

・「お宝救出!」→祖父の仕事

④風真の将来

・「秘密の電話」→父親と祖父の仕事に揺れる風真

・「未来予想図?」(スチルイベ)→日本を選ぶ示唆

 


 ①は【1】で説明した通り、「今も昔も変わらない主人公」を説明するために用意されたイベントです。②はいずれもささやかな夢が叶ったことを風真が主人公に伝えており、遠く離れた土地で想い人と引き裂かれた男の想いが報われてよかったね、と言いたい風真へのご褒美イベントだと思います。①は(非常に不服ですが)主人公を好きな理由、②は恋愛がらみのイベントのため真告白の条件とするのに妥当性がありますが、③は表面的に見れば風真のパーソナリティや価値観につながるイベントで、そこまで重要そうに見えません。真告白条件としての③(風真の仕事描写)は、④(風真の将来)を描く前フリのために存在するというのが第一の存在意義だと思います。特定の日にフリマに一人で行かないと発生しない「お宝救出!」から連続で起きるのが④の二つのイベントです。真告白の道中では、父親のような古美術商やオークション業、祖父のような骨董品や文化財保全にまつわる仕事の内容をそれなりにプレイヤーへ示した上で、将来に悩む風真の様子がエンディングで話が通ずる必要最低限の程度で描かれています(風真の仕事描写はほぼこれだけなのではっきり言って薄いと思います)。

 ③のイベントには、④にプレイヤーを導く以外にも風真の「モノ(物・者)の価値に対する価値観」を描くという重要性があります。これは本来、風真の考え方にかかわる部分であり、それだけであればわざわざ真告白条件に含む必要はないように思います。ただ風真は主人公がローズクイーンの台詞で主人公自体を「価値あるもの」と評しており、③で語られる「物」の価値に対する価値観は、主人公という「者」に対する価値観にそっくりそのまま適用できることがはっきりと描かれています。

 

 ローズクイーンになった主人公に対して風真は、「やっと時代が追い付いてきたな?俺なんかもう10年以上前から、知ってたよ。おまえの良さ」と一般生徒らへ向けたマウント発言をした後に「正しい価値が万人に認められるのはいい事」「価値ある物は、それに相応しい評価を受けるべき」「価値あるものは価値がわかる人間と一緒にいないと意味がない」と続けます。主人公は風真の誉め言葉に「なんか作品や商品みたい」と返しており、それに対してふさわしい評価を受けるべきであるという意味では「一緒」(=同様のことが言える)であると述べています。

 ここで、「チャリティーオークション」と「お宝救出!」の描写を振り返っていきましょう。1年目後半で発生する「チャリティーオークション」では、帰り道に風真が「俺はさ、物には正しい価値があるって思ってる。不当に低いのも、逆に吊り上げるのも嫌だってこと」と言います。この後、い風真はオークションという場が好きになれないことを述べています。オークションはそのシステムがゆえに物本来の価値よりも安い値段で買われたり、高い値段で買われる可能性があるため、風真は複雑な思いを抱くのだと推察できます。

 もう一方の「お宝救出!」はまさに、不当に低い値段をつけられている物に風真が出くわす場面を描いています。500リッチはするとみられるタンブラーを“救出”した風真は、出品者を「全く(タンブラーの)価値の分からない人間」と一刀両断し、「価値はそれを理解する人の前で初めて決まる」「品物も人もさ、正しく価値を理解してくれる人と一緒にいないと、不幸になる」と話していました。いずれのイベントも“適正価格”を見極める目を持っているという自負がある風真だからこそ言える言葉です。さらにお宝救出とローズクイーンに共通する「価値あるものは価値のわかる人のもとにあるべき」という思想は、要するに「価値ある主人公は価値がわかる風真と一緒にいるべき」という意味合いを含んでいるとみられ、その価値観が“物”だけに言えることではないことを示唆しています。

 また、風真の審美眼へのプライドを裏付ける会話として、ホタル会話(友人8・本当の評価を知るには)が挙げられます。この会話では、ホタルの住処は話で聞くより実際に見たほうがいいという話から、本当の評価は目で見て確かめるべきであり、その前段階として審美眼も鍛えておく必要性があることを述べます。そして、「風真くんの目なら間違いないね?」と言った主人公に対して「俺が一番最初に、この目で選んだのがおまえ」と言い、「おまえの言う通り、俺の目に間違いはない。10年前の俺は、すでにいい目を持ってたってこと」「俺だけが見抜いたってことでいいんだ」「他の誰にもわからなくていい」など、主人公の価値を見抜いたことこそ自分の目が間違いはない証拠であると自信満々に伝えていました。

 

 この仕事関係のイベント2種とローズクイーン、ホタル会話から分かるのは、風真は主人公の価値を10年前にすでに見出していたということです。風真は真告白で芋掘りの記憶を振り返る直前に「俺がおまえを見つけたのは」と前置きをしており、他にもホタル会話でも「見つけた」という言い方をしています。見つけたという表現をもとにすると、主人公は風真を含む誰からも好かれるような魅力的な子どもだったわけではなく、風真だからこそ(あるいは風真だけが)発見できた価値が過去の時点で存在していたということです。それは表には出ていない“潜在的な主人公の価値”と言い換えられます。

 すでにいい目を持っていた(と高校生の風真が語る)幼稚園時代の風真は、芋掘りを機に主人公を見つけ、今は発露していない幼い主人公の潜在的な価値を見抜いたことになっています。万人に認められなかったその価値が、10年以上の時を経て万人に認められるものとなるのがローズクイーンになった世界線です。魅力はゲーム内の説明を読むと「他人から見た魅力」を表すそうですが、風真はこのパラメータのみ唯一求めません。それはなぜかというと、魅力なんていう対外的で表面的な分かりやすい良さを発揮しなくても主人公の価値は自分がわかっているから。自分さえわかっていればいいと思っているからなのでしょう。風真の必要としない対外的な良さ(=魅力)をそれなりに挙げてパラメータ六つを満遍なく上げたときにローズクイーン会話は見られますが、そこで「魅力が高くなければ主人公の本当の価値に気付かない他の生徒たち」より優位な立場にいることを強調する描写はひじょうに興味深いなと思います。

 

 やや余談ですが、ホタル会話(友好7・食べなかったら大変)では、学食の話から主人公を「食いしん坊のホタルの幼虫(※成虫は何も食べないため)と例えます。その後もたとえは続いて「卵の時からいつもキラキラ光ってた」と話しています。ホタルは成長するまで土や水の中にいるそうです。話は変わって、風真と主人公の話の中によく出てくる上、ファッションアイテムを全収集して女子力を最大まで上げた時に貰えるプロフィールの背景に“サツマイモ”があります。イモをモチーフにするとどうしても「芋っぽい」(田舎者、垢抜けていないという意味)を想起しますが、芋っぽいという言葉は薩摩の侍を「芋侍」と揶揄したところからくるという説があるらしく、芋っぽいの“芋”はサツマイモらしいです。ホタルの幼虫と同様に、立派に成長するまでは地中などで育つあたりが共通しています。これは「掘り出し物」や価値ある物の「発掘」とかかっているように思えます。ホタル会話の「キラキラ光ってた」というホタルと主人公の比喩表現も「原石」を思わせるもので、主人公の秘めた可能性や発展性を強調していると考えられます。

 風真にとって主人公が幼い頃に見つけた「宝物」であると表現している描写は、告白エンドで見られるスチルにも存在します。風真が教会で告白を承諾した主人公に贈るヘアピンは、GS1において絵本の王子から姫へ、そして葉月珪から主人公へ贈る四つ葉のクローバーの指輪を第一に模していると思われますが、デザインには「七宝文」と呼ばれる文様が使われています。『世界大百科事典第2版』によると、七宝文は「円を4分の1ずつ重ねた連続文」で「上下左右に連続するさまから〈四方〉〈十方〉と呼ばれたのが,のちに仏教の十珍七宝(じつちんしつぽう)と結びつき〈七宝〉となった」そうです。また、七宝は『デジタル大辞泉』によると「 仏教で、7種の宝」(金や銀、瑠璃など)の意を持ちます。四つ葉のクローバーが再度王子キャラが贈るプレゼントのモチーフに選ばれたのは、GS4がシリーズ4作目だからというのもあるでしょうし、文様の名前が「“七”宝」あるいは「“四”方」から来ているからだと思われます。風真はエンディングでヘアピンについて「イギリスに行ったばかりの頃、見つけて買ったんだ」と説明しています(この描写はADVやホタル会話で見える時系列と矛盾していますが、今回はその説明は省略します)。この文様が持つ意味合いを幼い風真が知っていたかはさておき、制作陣がそのモチーフを採用したことに意味はあるはずです。七宝文のおめでたい意味合いは是非ネットなりで調べていただきたいですが、風真が主人公を「宝」物だと思っていると表現したい制作陣の意図を裏付ける描写だと個人的に思っています。あくまでエンディング時点の高パラメータの主人公に渡すのもポイントだと思います。

 


 いったん、風真にとって主人公は「宝物」であると仮定します。風真は約10年前から主人公の価値を見つけていたと言っており、さらに「一生懸命な主人公」を好ましいと思っていることを加味すると、風真は「自分の価値を最大限に発揮する努力をしない主人公には厳しい」という推測が立てられるのではないでしょうか。風真は表に見え難い主人公の価値を見つけたと言っていますが、それはつまり、優しさや明るさなどといった性格的な部分ではなく、未来に花開く主人公の“真価”や“可能性”を目利きによって主人公本人よりも早く理解していたということではないでしょうか。現時点でのパラメータが評価基準となるローズクイーンになった時に「俺なんかもう10年以上前から、知ってたよ。おまえの良さ」と、主人公に対しても「分かっていたよ」と先んじていたことを伝えています。ローズクイーンになると主人公の“魅力”が白日の下に晒されたことを自分の手柄であるように誇る風真にとって、大したパラメータを有していない主人公の9年後(入学当初)の姿は、あるいは1年目の期末テストで風真よりずいぶん低い順位でいた主人公は、一体どのように風真に映ったのでしょうか。本当は学校一と認められるローズクイーンにもなれるくらいのポテンシャルがあるにもかかわらず、己の真価を発揮するための努力を怠る“おまえ”は「らしくない」。自分のために頑張った形跡が見えない「主人公」は、適正価格より不当に低い値段を付けるという風真的に好ましくない行為を自分自身に対して行っているということになるのでしょうか。疑問は尽きません。

 風真はなぜか大好きだったはずの主人公への好感度が普通からスタートしますが、主人公の現在の姿は「9年前から変わってしまった」ことを感じさせるには十分すぎた可能性があります。「玲太くん」という名前呼びは「風真くん」呼びへ変わり、自分が大事にしていた思い出は覚えてくれておらず、9年経ってもなお才能や可能性が花開いた様子が見えない主人公は、風真の気持ちをときめかせるには足りなかったのかもしれません。それを証明するように、風真は主人公が昔と重なれば重なるほど喜び、パラメータが上がれば上がるほどパラ萌えをして、好感度が上がっていく様子がうかがえます。入学当初の主人公が風真の期待するものではなかった、それでも主人公とまた再会できたことに関してはとても嬉しく思えた、というのが好感度普通スタートの理由じゃないかと個人的に思います。

 

 今回は本編の描写から、風真は主人公を幼い頃に見つけた「宝物(※ただしその価値はまだ発揮されきっていない)」であると主張していますが、そもそも何故制作陣は骨董品(アンティーク)を取り扱う要素を風真に取り入れたのか考えてみると、私は最初から「主人公=宝物」のつもりで風真に骨董品屋の設定を採用したわけではないのかもしれないと思っています(かなり希望的観測であるという自覚があり、こういう見方もできるよね以上に根拠は用意できませんが)。

 GS4の風真と主人公の関係性において“古いもの”は何かというと、「風真の主人公への恋心」も相当なアンティーク品と言って差し支えないのではないでしょうか。風真がイギリスにいた頃には主人公は遠く離れた日本にいます。そのような状況で風真が長年大事にしてきたのは手元にない主人公そのものではなく、自分の心の中にある主人公への思いだったと思います。【1】でも述べた通り、風真の思いが変わらないことと主人公が昔から変わらないことは別の話であるように、風真の主人公への思いがアンティークのように昔から大切にしてきたものであることと、主人公自身を風真が宝物だと思っているかどうかは別の話です。作り手の意図がブレたのかどうかは定かでありませんが、主人公がどうであるかに焦点を置くよりも風真の思いの不変性や貴重性に焦点を当てた物語を展開していたら比較的マシだったのでは、と思いました。

 

 章のまとめに入る前にもう一点だけ、周回するたびに聞く可能性があるボイスについてあらためて考えてみたいと思います。修学旅行の枕投げにおける風真の必殺技は「無慈悲なハンマープライス!」であり、発動時には「価値あるものには相応の、ないものにはそれなりの、無慈悲なハンマープライス!」と叫んでいます。あくまでもプレイヤーに向けたメタ的な表現として、風真は必殺技で価値を鑑定した相手に対してさまざまな値札をつけます。このときの主人公は一律で「非売品」の評価を受けますが、実際のところ、本編中の風真の主人公に対する評価はどうなのでしょうか。

 風真はパラメータ次第で昔から好きな女の子、あるいは今も昔も変わらず好きな女の子でさえ告白せずに3年間の高校生活を終えます。それは主人公のパラメータという価値を最後に鑑定したとき、「価値あるもの」と認めれば告白をして、「価値がないもの」と鑑定したら告白をしないと受け取ることも可能です。価値という判断基準を風真が物にも人にも適用するという設定は、『ときメモGS』というパラメータで恋をする側面もあるゲームに噛み合いすぎて正直相性が悪いと思います。

 言及できる場面がここまでありませんでしたが、風真は「適正価格から不当に吊り上げられた物」に、肩書で周囲の人間から過剰にチヤホヤされる自分を重ねています。オークションのスチルイベントで風真が言う「(評価が)不当に低い」ものは主人公であり、「(評価を)吊り上げる(吊り上げられた)」状態にあるのが風真という見立てにしたいのだと思います。 風真自身に対して適正価格の話をつなげるのはわかりますが、主人公にも物の価値の話を当てはめてしまうと、パラメータという数値ありきの機械的な恋をさまざまなシミュレーション要素でマイルドに仕上げていた過去作における制作陣の創意工夫が台無しだと思います。もちろん過去作のキャラも、GS4のキャラもパラメータを満たさないと基本的に振り向いてくれないのは風真と同じです。過去作の王子たちも高パラメータを求めるのは同じですが、風真のようにプロローグで明確な主人公への好意が描かれ、その想い人が誰であるか、どんな思い出があるか鮮明に覚えていてわざわざ語ってくる王子は風真だけです。これまでの他の攻略キャラと一線を画したキャラクターを作るうえで、過去作のキャラと同じような条件設定や描写を用意したら不整合な点がいくつも生じるかもしれないと、制作段階で気づく人はいなかったのでしょうか。

 

 まとめると、風真が昔見つけた主人公の潜在的な価値というのは、およそ10年後に開花する高パラメータの主人公(未来の姿)であると考えられます。だからこそ主人公が自分自身の価値を理解してそれを磨くことに期待している。現在の風真は「いつも今が一番いい」と言う言葉を当てはめるには不変の過去と変化する未来に目が向きすぎていて、全く現在を見ていないとまでは言わなくとも、今を見ようとする風真の目は歪んでいるのではないかと思わざるを得ません。あるところでは不変、またあるところでは変化を求めるということは、風真の複雑な価値観に沿った理想の主人公像を現在に求めているとも捉えられます。それはあまりにも、主人公にいろいろなものを押し付けていて、幼い風真が見つけた主人公の秘めた可能性を結果的に狭めていないでしょうか。ローズクイーンという主人公の価値が顕になった瞬間、それはつまり主人公の価値がきちんと発揮された時、風真はまるで想定内であるかのような反応をします。おまえにはそれくらいの価値があるのだから当たり前だ、俺の思い通りになってくれてありがとう、とでも言わんばかりの風真の浮かれなさは、昔を重ねて喜んでいるときの浮かれっぷりとの差が激しいと思いました。

 過去の不変を求めるか、未来の変化を求めるか、どちらか一方に絞ったとしてもキャラクターを作ることはできたと思います。そうしていれば、今のような二重基準で複雑怪奇な思考のキャラクターには仕上がることはなかったと考えられます。

 

 

【4.ときメモの特徴と主人公の位置づけ】

 ここまで作中のあちこちに用意されたテキストから風真というキャラクターの造形を探ってきました。さんざんその手法で主人公や風真について考えを巡らせた上で本来言うべきではありませんが、発生にそれなりの運が絡む会話イベントやデートの3パターン×3つの選択肢への反応などから総合的にキャラクターについて考察する行いに普遍性はないと思います。なぜならば『ときメモ』は本来、好きなキャラクターの告白エンドを1周迎えたら満足する人もいるくらいプレイヤーの遊び方が幅広いゲームであり、プレイヤーが3年間の学校生活(告白成功を前提にすれば1周)でキャラをひと通りは理解できるように描写している必要があるからです。言い換えると、高校生活3年間の恋を描くゲームかつ運次第でプレイヤーの情報入手に差が出る仕様であるということは、攻略キャラクターの“像”を構築するための判断材料がプレイヤーや周回ごとに異なるとも言えます。

 誰もが攻略本を購入したり攻略サイトを活用したりするわけではないので、大事な情報をランダム性の高いホタル会話や3分の2で逃してしまうデート会話に忍ばせても、大半の人が回収できる(している)とは思えません。その上、GS4はイベントの発生条件が複雑なものが多く、攻略キャラクターに関する強制イベントがほとんどない作りになっています(辛うじて海や喫茶店会話、ときめき状態の修学旅行や演劇、3年目クリスマスが強制イベントに近い)。つまり、攻略していれば絶対に見られると確約されているイベントが少なく、運によっては取り逃す情報がちらほらあるため、1周でキャラクター性を掴みがたかったり、不整合に見える部分が存在したりする可能性があるということです。


 GS4には相手の心の声が聞こえる噂のあるホタルの住処において、攻略キャラの本音や主人公に対する想いを知ることができる新システムを導入しています。ホタルの住処はランダム性の高さや個別に設定された発生条件の厳しさが如実な部分であり、ここではキャラクターが脈絡なく大事な情報を話し始めます。会話のバリエーションが豊富でキャラクターの心中を覗けるのは面白いですが、あくまで謎空間で心の声が漏れ出たという“ノーカン”扱いとなり、きわどい内容を聞いたからと言って二人の関係性が変わることはありません。普段の会話の中でにじみ出る葛藤や嫉妬などを、きちんと本編中に脈絡がある形で盛り込むべきだったと思います。
 また、プレイヤーが1周でそのキャラを分かった気になっていても、真告白やクリスマスなど1周の最終盤で(キャラ解釈が一変するような)とてつもなく重要な情報を置くことで、クリア直前にキャラの見え方が変わってしまう点も問題と感じました。例えば風真の逆転告白において最も分かりやすく伝えられる日本に帰国した理由であったり、柊夜ノ介の真告白で明かされる演劇への思いだったり、七ツ森の3年目クリスマスにおける女装の暴露だったりします。真告白に攻略情報なしでたどり着くのは困難なこと、逆転告白も調整が難しいことを考えると、その情報に基づいた本編中のキャラの言動は当該エンディングを見るまで知りえません。周回の楽しさは私自身理解していますが、結末でようやく分かる情報によりキャラの見え方がガラリと変わるという事態は、3年間の高校生活でキャラと知り合って親しくなるゲームではできる限り避けるべきではないでしょうか。
 七ツ森に関しては眼鏡orモデル姿の選択肢が初見では心情的にモデル姿を選び難い選択肢となっているためフリマスチルを回収しづらいこと、特定の月の休日にはばチャコマンドをしなければいけないこと、4人グループ結成が条件となっていることなどを踏まえると、クリスマスの告白(女装打ち明け)はそれまでの学校生活で知り得たこととつじつまが合わない可能性があります。後の周回でスチル等を回収すれば補うことは可能ですが、「わからない部分は周回でわかればいい」という姿勢はあまりにも「3年間の学校生活を送る」というゲームの趣旨を軽視しているように思えます。
 たとえ運次第では見ることのできないイベントが多かろうと、1周で把握することができた内容が、本来そのプレイヤー、その主人公が知ることのできた攻略キャラクター像のすべてです。描かれない以上、イベントが発生しない以上は“その周回における”攻略キャラクターが、クリア後に周回で回収していたイベントと同じことを思っていたとは限りません。周回によって知り得た情報を攻略キャラの一貫した設定として採用するかどうかは各プレイヤーの判断に委ねられています。採用したとしても、周回ごとに主人公、攻略キャラのたどる過程が異なるのであれば、前周回と異なる段階を踏まえたキャラの感情は同じにはならないと個人的に思っています。


 そんなわけで、周回を重ねて網羅できるような情報をさらえる範囲で検討して風真というキャラクターを考察する私のとった手法は本来、下策もいいところだと思います。周回によって知り得た情報をもって攻略キャラを知ろうとするのは、主人公(プレイヤーキャラ)ではなくプレイヤー本人の興味関心(恋愛感情という人も勿論多いと思います)からくるものです。1周ですべての情報を知ることが難しい以上、各プレイヤーが体験した周回ごとに異なる過程、感情を有した全く別個体の攻略キャラが無数に存在するということではないでしょうか。各プレイヤーが同じキャラクターを攻略しても、一本道ではない物語を体験するがゆえに同じ印象を受けがたく、キャラクター像を共有することが難しいというのがシミュレーションの長所であり短所であると言えると思います。

 ただ、風真関係の作中描写は、俯瞰すると似たようなことを言うテキストがさまざまな場所に複数配置されています。それは制作陣が作った“設定”に基づいたテキストであり、風真を制作陣がどのように描きたかったのか、「制作陣の意図していた風真“像”」を考える上で重要だと私は思います。そのためにさまざまなテキストをあたってみた次第です。
 【2】の冒頭で提示したように、風真は主人公との会話の中で主人公がどういう人物であるかよくよく説明しており、その上で昔と変わらない姿に嬉しがっている様子があちこちで見受けられます。『ときメモGS』がこれまで作中の描写だけで主人公の人物像を描いてきた物語であるならば、作中でキャラ描写が完結しても全く問題ないと思いますが、『ときメモGS4』はゲームであり、ジャンルとして「学園恋愛シミュレーション」を謳っている作品です。ジャンルの特性を考慮するならば、はたして主人公は作中の描写のみで説明できるキャラクターで良かったのでしょうか。
 【1】から【3】までは作中の描写に焦点を当てて風真というキャラクターについて考えてきましたが、本章では作品の特性をあらためて振り返った上で風真とプレイヤーの関係性や、主人公を形作る存在について述べていきます。


 はじめに、ときメモシリーズのジャンルであるシミュレーションゲームについて確認しておきたいと思います。『デジタル大辞泉』によるとシミュレーションゲームは「戦争やスポーツ、またビジネスや人生の進路選択などを素材にして、実際と同じような状況を設定し、その場その場の判断によって展開が変動するゲーム」と紹介しています。また、『ASCII.jpデジタル用語辞典』では「パソコンや家庭用ゲーム機で、現実の一場面をCGなどを使って仮想的に再現し、体験したりコントロールしたりして楽しむゲーム」と説明しています。そもそもゲームはゲーム内にある状況下を作り出して、プレイヤーの選んだ行動や判断による体験を味わうものであるとは思うので、シミュレーションゲームにしかない特徴というよりは、より特徴的な部分をもって紹介している印象です。
 恋愛ゲームは「シミュレーション」と「アドベンチャー」の2ジャンルに大別されます。アドベンチャーゲームは『デジタル大辞泉』によると、「ある物語にそって、展開のしかたを推理して順次その画面を選択しながら結末に行き着くもの」、『IT用語辞典バイナリ』では「ゲーム中のキャラクターの能力値を高めてゆくことを楽しむ要素はないが、より物語性が強いといった特色もある」とも説明されています。この2ジャンルの区分けは非常に曖昧なため、かなり主観を交えた形で定義付けをするならば、恋愛アドベンチャーの特徴は“物語性の重視”にあり、恋愛シミュレーションの特徴は“体験性の重視”にあるのではないでしょうか。あくまで重視するのがどちらであるかという話で、恋愛シミュレーションに物語性、恋愛アドベンチャーに体験性がないかというとそうではありません。ゲームであり、さらに人と人の関わり合いという「恋愛」をテーマにゲームを作るからには物語性も体験性も絶対的に備わっています。そのうえで、どちらの要素が色濃いゲームとして作られたかの違いがジャンルを分けるのだと思います。


 『ときメモ』は本家もガールズサイドも、主人公のパラメータを上げながら学園生活中に出会う(あるいは、もともと出会っている)キャラクターと親交を深めながら、卒業のタイミングで告白される(作品によっては主人公側から告白することも可能)ことを最終到達点としたゲームと言えるでしょう。『ときメモ』のシミュレーション要素は、パラメータ変動や主人公の行動選択(選択肢を選ぶことも含む)によって学園生活や恋愛が形作られる点にあると思います。そういった部分が大半を占めつつ、イベントによって二人の仲の進展を物語的に見せている部分もあり、その点はアドベンチャーゲーム的な見せ方を採っていると考えられます。
 アドベンチャーゲームは物語が分岐する要素を選択肢に(※基本的に)絞っていて、エンディングに向かうフローチャートの形が明確です。恋愛シミュレーションもエンディングに向かう条件は存在し、好感度の段階によって起こるイベントが違う点においてはざっくりフローチャート的な形であるとも言えますが、新たなイベントが起きる段階に到達するまでの過程はプレイヤーの操作に委ねられています。シナリオライターによって起承転結が詳細に描かれるアドベンチャーゲームと異なり、シミュレーションゲームは作り手が用意した様々な要素をプレイヤーが組み立てることによって恋愛の起承転結が描き出されると捉えられます。アドベンチャーゲームのように大事な部分での行動選択をさせることにとどまらず、“過程の大半をプレイヤーに委ねる”点が恋愛シミュレーションと呼ばれるジャンル、そしてときメモシリーズの特徴と言えるのではないでしょうか。
 恋愛シミュレーションも結局のところ、作り手の用意したテキストやプログラムなしに物語を紡ぐことは不可能です。しかし、どこで誰とデートをして、どんな会話を楽しんで、誕生日に何をプレゼントして、どんなイベントを発生させられたか━といったプレイヤーの細かな行動選択は、自分以外のどのプレイヤーも体験できないオリジナルの高校3年間を生み出しています。つまりはゲーム内にあるすべてが制作陣が用意したものだとしても、イベントが発生するタイミングや順序次第では制作陣が全く想定していない物語性がプレイヤーのもとで作り出される、ということです。作り手がゲーム内に搭載した諸々をプレイヤー側が組み立ててようやく完成するのが恋愛シミュレーションゲームの物語であるということは、つまりは作り手と各プレイヤーの合作とも言えるのではないでしょうか。
 たとえば、GS4で風真と七ツ森の好感度を上げた周回において、3年目2月に風真がイギリスへ出発した直後に七ツ森がデートに誘ってきた場合。好感度が好き状態になれば数カ月に1回起こるデートのお誘いは、行為自体は「好きだから誘った」という意味合いのみを持ちます。しかし、好き状態でデートに誘ってくるキャラが2人以上いる状況下では、主人公を奪われまいと我先にデートに誘おうとする文脈が生まれます。その上さらに風真がいなくなった後に七ツ森が声をかけてきた場合、七ツ森の行動をプレイヤー(あるいは主人公)はどう受け取るでしょうか。もし仮にプレイ中にそのような状況に出くわしたら、私は「どんな理由があろうとも、卒業直前のこんな大切な時期に主人公を置いていってしまうヤツに心を乱す必要なんてない。俺を選んでほしい」という七ツ森の言葉にしない訴えを個人的に想像して楽しむと思います。このように、シミュレーションゲームイベントの発生時期や順序、各キャラ攻略状況などによっては制作サイドが本編に直接描いていないこと、あるいは想定していないこと以上の“物語”を生み出しますアドベンチャーゲームのような細やかで連続的な物語性に欠けていたとしても、システムとプレイヤーの想像力が作り手の用意した以上の物語を各プレイヤーのもとで生み出す手伝いをしてくれるがシミュレーションゲームの強みです。


 また、ときメモには本家は2から4まで、ガールズサイドは2(PS2版)までどんな名前でも読んでくれるEVS(Emotional Voice System)が搭載され、プレイヤー自身の名前や主人公に付けた名前を作中のキャラクターが呼んでくれることでゲーム体験によりオリジナリティーを持たせていました。ガールズサイドはDS版発売以降は元々収録してある名前のみ呼ぶシステムとなりましたが、技術や手間や容量的な理由でEVSが廃止されてもなお名前呼びシステムを備えているのは他のアドベンチャーシミュレーションゲームと異なる点であり、ときメモシリーズが何をプレイヤーに楽しませたいゲームだったかが見える部分だと思います。
 それはつまり、プレイヤーの操作によって紡がれるオリジナリティーあふれる高校3年間と恋愛を、より没入感を持って楽しんでほしいということなのではないでしょうか。プレイヤー個々人の体験、あるいは辿った過程、もしくは主人公そのものが全く異なることの現れが最初の名前入力システムであり、主人公がその名前の人物であることをより強調するのが名前を呼んでくれるシステムだと思います。プレイヤーに擬似的な学園生活や恋愛を楽しんでほしい、各プレイヤーのたどる3年間にオリジナリティーを持たせたいという理由以外に、わざわざキャラクターへ名前を呼ばせるシステムをそれなりの手間と時間と費用をかけてまでGS4まで残している理由は(少なくとも私には)考えられません。デフォネームの音声差分を収録した乙女ゲームが多い現代に、あえて過去作のまま名前呼びシステムを残し、さらに売り文句にまでしている(Twitterの「名前を呼んでくれる学園恋愛シミュレーションハッシュタグ参照)ことの重要性は高いと言わざるを得ません。


 ときメモGS4の公式サイトにおいて、プロローグやゲーム内容、システムを紹介するページでは、「あなたはこの街で『はばたき学園』の高校生として、さまざまな人と出会い、いろいろな体験をしていきます」「なりたい自分をイメージしコマンドを実行!」「何をして誰と出会うか?全てはあなたの行動と選択しだい」と、複数箇所で「プレイヤー=主人公」を明言するような記述があります。動画投稿のガイドラインやゲーム内の「わたしのこと」のプロフィールでは個人情報が特定できる内容をSNSや動画投稿サイト等に投稿しないよう注意喚起しており、制作サイドがプレイヤーが本名を付けることも少なからず想定していることがうかがえます。ここから言えるのは、たとえプレイヤーがGS4をどのように楽しんだとしても、「主人公=プレイヤー=あなた」の構図は揺るぎないということです。
 かといって、プレイヤーはゲーム内の主人公のように3年後に秀でた人間に絶対になれるわけでもなければ、現実で複数の男性を手玉に取れるとは限らず、ましてや「ふふっ!」が口癖の人間ではありません。プレイヤーの“私”とは全く異なる存在であるはずの過去作の主人公は、どうして「主人公=プレイヤー=あなた」として受け入れられてきたのでしょうか。


 それは、ゲームという媒体で物語を楽しむ人間は(実況動画を視聴するなど傍から見る場合を除き)、プレイヤーという立場で物語に関わり、物語に影響を与える存在だからです。ジャンル関係なく主人公という位置づけのキャラクターが存在するゲームにおいて、主人公=プレイヤー=あなたの図は成立しますが、ときメモは特に恋愛シミュレーションのため、プレイヤーという存在が主人公を操作することで物語内で果たす役割はとりわけ大きいと考えられます。
 小説や漫画、アニメ、ドラマは物語を楽しむにあたり、ひじょうに受動的な媒体と言えます。ページをめくる、次の話を見るために1週間待つという「物語の続きを読む(見る)」ために受け手がある程度作品の外で動く必要はありますが、一度物語が始まればあとは眺めるだけで、物語への介入はできません。一方で、ゲームは物語を進めるためにはプレイヤーの操作が必須な点で能動的な媒体です。告白条件に沿うように主人公のパラメータの昇降を操り、攻略キャラをデートに誘える自由度の高さを誇ってきた(過去作の)『ときメモ』は、プレイヤーの性格と主人公の性格が一致しているとは言えなくても、主人公がたどる過程はプレイヤーがたどった過程と重なるため「プレイヤー=主人公」と言えたのではないでしょうか。もちろんプレイヤーは自分自身(プレイヤー=あなた)でもあるので、間接的に主人公は自分自身である(※そのものとまでいかないにせよ)という図が出来上がっていると思います。
 「プレイヤー=主人公=あなた」の図は、操作によってプレイヤーが主人公の行動選択をほぼ一任されることで強まります。それは、主人公に自己投影や感情移入をしているプレイヤー、傍観者として主人公と攻略キャラの恋を見守る立場にいるプレイヤーといった遊び方の違いにかかわらず、「プレイヤー」という立場にいる人間の全てに適用されると思います。自己投影をするプレイヤーも主人公と完全に同一化はできないし、傍観者として見守りたいプレイヤーも主人公と自己を完全に分離することはできません。なぜならば、『ときメモ』はゲームだから。『ときメモ』がゲームであることこそが、プレイヤーと主人公の切っても切り離せない関係性を確固たるものにしていると考えられます。


 これはときメモに限らず言えることですが、恋愛を題材にした物語には最低2人以上のキャラクターが必要で、2人の関わり合いを描かなければいけないため、真に無個性の主人公を作ることは不可能です。「主人公=プレイヤー=あなた」を公式サイトで押し出すようなシリーズのわりにGS1から4の主人公に性格的な違いがあるように見えるのは、ある程度個性を描かないとスチルイベントなどのアドベンチャー的な部分が描けないので当たり前のことだと思います。
 イベントや会話を描くために制作陣が用意した主人公の特色(っぽく見えるもの)は、描かないとそもそもゲームが成り立たないから描いていたのがGS4以外の本家含む過去作であると私は認識しています(GS4は主人公を説明しすぎているという意味です)。主人公の個性はプレイヤーと主人公の違いを感じさせるためにあるのではなく、描写の都合上描いているもので、そのまま受け取ればいいわけではありません(そのまま受け取ってもいいが、受け取らずとも良いはず)。作中の主人公描写を踏まえつつ、プレイヤーの行動選択に影響を受けて完成するのがその周回の主人公像であると思います。
 物語中で描かれる主人公の性格的な特徴や設定的な「らしさ」は、基本的に「プレイヤーらしさ」と“ぴったり重なる”ことはありません。その代わり、行動選択や運によって紡がれる3年間の過程にこそ、各プレイヤーの特色があらわれていると考えます。また、わざわざその周回における「主人公らしさ」がどのようなものか考えて遊んでいるプレイヤーばかりだとは限りませんが、行動選択によってどうにせよ主人公の姿は異なるので、プレイヤーが意識せずとも自ずと異なるものだと思います。


そもそもとして、『ときメモ』はプレイヤーの操作する一連の過程を無視すれば、卒業直前にエンディングを迎えたいキャラクターのパラメータと好感度さえ満たしていれば攻略キャラが自動的に告白をしてくるゲームです。「主人公=プレイヤー=あなた」という位置づけを考えたとき、この仕様は「どんなプレイヤー(主人公)でも好きになる」という捉え方も可能になってしまうと思います。ただ、それはあまりにも機械的でゲーム的で、そのような味気ないゲームであったならば男女向けにシリーズ化されるほど人気を博すことはなかったと思います。
 『ときメモ』はプレイヤーに主人公のパラメータを成長させたり攻略キャラの好感度を上げる操作を任せ、プレイヤーの行動を受けた攻略キャラの反応を用意し、高校生活を自由に送れるようなシステムを用意しました。プレイヤーごとにデート先や選択肢、好む服装、パラメータの上げ方は異なり、誰一人として同じ過程をたどった主人公は存在しません。 プレイヤーが主人公の行動選択を司り、過程を操るからこそ、攻略キャラはその過程に影響を受けて態度が軟化し、主人公にだんだん想いを寄せていくという変化が生じます。
 告白までの過程を時間をかけてしっかりとプレイヤーに体験させるゲーム性を備えたからこそ、「パラメータと好感度を上げて条件を満たせば恋人になれる」というゲームの統一された結末にプレイヤーごとの独自性が生まれ、攻略キャラとプレイヤー(主人公)の恋がオリジナリティーあふれるものとして感じられるのでしょう。プレイヤーの能動的な行為(操作)による結果として攻略キャラの行動に変化が生じるからこそ、ゲーム内で描かれる恋愛に没入感が増し、やりがいや達成感を味わうことができ、“体験”としての充実度が増すのだと思います。それこそが『ときメモ』の有していた唯一無二の魅力でした。 

 


【5.風真と主人公、そしてプレイヤー】

 前置きが長くなりましたが、いよいよ風真の話に移りたいと思います。ここまで、ときメモシリーズにおける主人公は「主人公=プレイヤー=あなた」という位置づけになっており、たとえ主人公の性格やら何やらがプレイヤーと一致していなくとも、プレイヤーが主人公の行動を選択してエンディング(告白)までのオリジナリティーあふれる過程を生み出すことで主人公(の一部)として物語内に存在していることを述べてきました。プレイヤーが主人公の過程を司るならば、主人公の設定やイベント内における反応等を用意したのは制作サイドであり、作品と同様にときメモの主人公は制作サイドと各プレイヤーの“合作”であるはずです。では、現行の本編における風真がエンディングにおいて主人公に思いを伝える際に言うのが何であるかというと、それはやはり「過去(設定)」や「主人公らしさ(設定)」に基づくのだと思います。


 風真の告白はおおまかに言うと「日本に来た経緯→9年間思うほど大切にしていた過去の思い出→優柔不断な自分への反省→おまえが変わらず好き」という流れです。真告白では過去の思い出が現在とリンクすることだけ言及がありますが、一番プレーンな通常告白含めて「おまえが、変わらなく好き」という以外は高校3年間に関して言及がなく、過去の思い出と自分が高校3年間でなかなか決心できずにいたことを懺悔しています。要するに、告白の中身が「過去のおまえ」と「現在の自分」で構成するということです。それでいて最終的にわかるのは、風真が「結婚」という高校卒業後の未来のために動いていたという事実なので、「現在の主人公そのもの」に対する言及がすっぽり抜けているように見受けられました(真告白は過去と重なる現在のみ。逆転、グループ告白は性質上現状への言及はあるがあっさりしている)。
 前述した通り、シミュレーションゲームである『ときメモ』の主人公は、作り手と受け手の存在なくして完成しない「合作」的な人物です。作り手がある程度の設定を作り、受け手が動かすことでその周回における主人公の“像”はようやく固まります。この私の考えに基づくならば、制作サイドが担うのは前提(スタート)と結果(ゴール)、過程の一部(イベント等のアドベンチャー部分)で、各プレイヤーが担うのは過程(スタートからゴールまでの間)(行動選択のシミュレーション部分)だと捉えられます。この時、風真が告白で語るほど重要視していた部分はどの点にあったと言えるでしょうか。
 風真は約10年前に出会った主人公(前提)を好きになり、再会して「けっこんできますように」という願い事を叶えます(結果)。風真は変わらず主人公が好きだった、という風真側の過程は告白で触れられますが、ともに過ごした主人公が歩んできた3年間について何か語っているでしょうか?あくまで風真が重点を置くのは過去であり、過去と重なったピンポイントな思い出や主人公の設定に準拠した「らしさ」であり、“過去”にとらわれずに現在を語ることは(少なくともエンディングにおいては)ありませんでした。


 再三となりますが、風真は真告白で「ぴったり重なるんだ。思い出と今が」と特定の事柄について語ります。風真のとりわけ嬉しかった今の出来事が何かというと、キャンプ場と、運動会と、夏祭りのスチルイベントだそうです。それはつまり、制作陣が用意した設定と意図的に重ねた、これまた制作陣が用意したスチルイベントにときめいたということであり、プレイヤーの介入の結果とは言い難いと判断せざるを得ません。GS4が恋愛アドベンチャーゲームであったならば、制作陣が用意した描写だけで物語が成立しても納得できます。しかし、GS4は『ときめきメモリアル』という恋愛シミュレーションゲームの最新作だったはずです。それが一体どうして、好きな理由が過去の思い出や、スチルイベントの中で描かれる主人公の性格描写や思い出の中にあるとはっきり示す作りになってしまったのでしょうか。
 もちろん、プレイヤーの行動選択に対して攻略キャラクターに逐一反応させられるよう差分を用意するというのは容量的にも予算的にもおそらく無茶な話です。そのため、告白エンディングにおいて語られる内容はどうしてもイベントに基づくものや、攻略キャラ自身の感情の変化になりがちだと思います。これまでのシリーズで、差分を無尽蔵に用意することが不可能であるという難点を緩和してきたのは、好き以上で見られる強制イベントなどの存在だったと考えられます。攻略キャラの好感度(のみ)を発生条件とするイベントを設けることで、プレイヤー(=主人公)はデートをしたりパラメータを上げたりしないとイベントを見ることができません。これにより、プレイヤーがキャラと関わり、仲を深めるための行動を取ってきたからこそイベントを見ることが叶ったという過程ありきのイベントとなります。そして、プレイヤーが制作陣による出来合いのイベントを自分の行動と地続きの“結果”として認識できていたのだと思います。


 一方風真は、主人公が行動して風真の好感度(?)を上げた結果見られるイベントが、過去と現在における主人公の行動や性格が一致する内容になっています。これは、プレイヤーが行動選択で現在の(そしてその周回の)「主人公らしさ」を構築しつつ風真と仲を深めたことによる結果が、制作陣によって固定化された「主人公らしさ」に帰結してしまうということです。どういうわけか、現在においてプレイヤーが操作して(頭の中で意識的にしろ無意識的にしろ)思い描いてきた「主人公らしさ(各プレイヤーの独自性)」より、制作陣が用意した過去設定に基づく「主人公らしさ(プレイヤーにかかわらず統一された設定)」が上回ります。前述した通り、『ときメモ』の主人公は作り手と受け手の合作的存在であり、最終的に主人公像を組み立てるのはプレイヤーなので、主人公の性格を作り手側が固定することは不可能だと思います。理由としては、いくら作り手が主人公の性格を固定したとしても、プレイヤーの行動選択次第ではイベント中の描写に沿った選択肢や行動を選ばない可能性があるから。あるいは印象の悪い選択肢を選び続けていたとしても他の要素で挽回できていれば告白エンドは迎えられてしまうため、整合性が取れないから…以外にないと思います。
 【2】では、風真の発言から風真の考える過去に基づく主人公像を作中のテキストから考察しました。あの羅列してきた主人公像は、たしかに制作サイドがイベント内で描写する主人公像に当てはまる部分が多々あるかと思います。しかし、制作サイドが用意してプレイヤーに選択を委ねたデートの選択肢など諸々の行動選択には風真の思う主人公像にそぐわないものも多いはずです。PSP版のGS3では天使、小悪魔に主人公の属性が偏る要素が(元々あった選択肢に)取り入れられるくらい、主人公の選択肢は性格的な一貫性がないものとなっていました。
 GS4もイベント内で描写される主人公の性格に全く噛み合わない選択肢が用意されているということは、制作サイドがプレイヤーの数だけ主人公像に違いは見られるという認識を持ち合わせていると思われます。しかし結局優先されるのは、イベント中の性格描写であるという印象を本編から受けました。プレイヤーによって多種多様に展開された主人公の“これまで(高校3年間)”には目もくれず、全プレイヤーに共通する過去“設定”が好きということは、風真が重視しているのは主人公が自分のことを好きであることと、自分の満足するスペック(パラメータ)という結果だけで、過程はどうだっていいということだと思います。少なくとも、告白でたいしてここまでの3年間で変化したはずの主人公に言及がないので重きは置いてません。
 また、言うまでもないことですが風真は他のキャラクターと同じように主人公の言動を喜ばない返答をする選択肢が存在します(対応がテンション低めで辛辣なぶん、他キャラよりきつく見える)。風真のただの正論パンチを引き出す選択肢や、風真の気に障るラインに引っかかる選択肢も少なくありません。良くも悪くもない成績に対する冷めた反応も、「らしくねぇ」と発言するにまで至った言動の数々も、プレイヤーの行動によってはいくらでも起きているはずです。にもかかわらず、まるでそんなことは一切なかったかのように都合の悪い現在には触れず(※システム的に触れられるわけがないのは仕方ないにしても)、ひとたびイベントで描かれた風真にとって都合の良い「過去のまま在る主人公」にのみ言及しているという不自然な状況が出来上がっています。
 さらに【3】では、風真が物に対する審美眼や価値観を主人公にも適用し、風真が幼い頃に見つけた「価値あるモノ」である主人公が努力によって真価を発揮することを期待している点について述べました。昔から主人公のことが好きというキャラ設定に反して難易度の高いパラメータ条件を設けたにもかかわらず、この要素は特段告白では触れられません。風真は主人公を鑑定した結果、条件を満たしていれば告白をしますが、入学式時点の風真と主人公のスペックの差を踏まえて高みまで上ってきた主人公に対しては特に何も言ってません。ローズクイーンになった場合は文化祭で褒めていますが、エンディングでは努力によって磨き上げられた高パラメータの主人公に対してプロポーズするだけに留まります。パラメータが参照される成績に対してあれだけ厳しい反応を示していた理由がエンディングですら直接的には描かれないというのは、あまりにもパラメータの上げがいがないと思います。
 過去作の、特に高パラメータを求めてきた葉月珪と佐伯瑛は、高嶺の花や人気者という設定ありきで条件設定が厳しくなっており、設定相当の難易度にすることで攻略にやりがいが生まれていました。難易度を高くするにあたり、「幼い頃に出会って約束をした運命の相手」という設定は本来嚙み合わせが悪いのですが、1、2はその事実をはっきりと明かすのは最終到達点のエンディングにすることで整合性をとっていました。3は名前も素性も知っている幼馴染をダブル王子にしつつ、昔から恋愛感情があったかどうかはぼかしつつ、全能力を一定以上求める仕様を撤廃していました。「幼い頃に出会って約束をした運命の相手」と「幼馴染」という要素を両取りした王子(※風真はあくまで一方的な願い事)を生み出し、さらには主人公が昔からずっと好きで結婚したいと思っているという過去作の王子と違った設定を付与したにもかかわらず、魅力以外の能力で高パラメータを要求するのであれば、やはり本編で直接的に理由を提示するべきだったと思います。風真の条件設定の高さは王子キャラの伝統にとりあえず則っており、一応理由付けはされているものの(主人公の真価発揮を期待しているから)、本編において実を伴っていません


 プレイヤーがゲームを遊んで積み上げてきた過程が風真に対して影響を与えていたか考えてみると、たいして与えていない気がします。プレイヤーがデートに誘わずともパラメータさえ上げれば風真は勝手にパラ萌えをしますし、デートを重ねても風真はもともと主人公が好きなので風真が喜ぶだけです。プレイヤーの行動の結果は風真の「告白をする勇気」につながる程度ではないでしょうか。風真は事実として、入学直後や1年生の夏の時点で進路を含めた主人公との未来を決断する勇気がない「卑怯」で「意気地なし」(※本人の告白より)な面を持ち合わせていました。主人公が他のキャラと仲良くすれば、途中で邪魔したとしても最終的にはシステムの都合で身を引きます。
 プレイヤーは、そんな勇気が出せない風真に対して主人公を通して関わっていくことになり、風真に対して恋愛的な意味での好意を示し続けた結果、ようやく風真は日本に残る決心をして、卒業直前にイギリスで両親と相談し未来を選び取るという展開が告白エンディングまでに描かれていたと思います。プレイヤーが行動選択を通じて与えられたのは「主人公も自分のことが好きだと行動からほぼ確信できたことによる安心感」であり、パラメータを上げて風真の見出した主人公の真価を発揮させ、デートを重ねて好きだとアピールし続けたことで風真は安心して告白ができましたとさ、めでたしめでたし……で物語は終わります。これは主人公(=プレイヤー)が風真と付き合うために頑張ったというより、風真をサポートするために主人公を操った形が強く出ています。


 そもそもGS4は冒頭から、風真が主人公に対して変わらず好意を抱いていることを、願い事の心の声を描写することによって直球的にプレイヤーへ伝えていました。一方、作中の主人公は風真が自分に対して好意を持っていることを知らないように見えます。その時点ですでに主人公の意識とプレイヤーの認識は乖離していたと言えるでしょう。もちろん、「主人公=プレイヤー=あなた」の構図を行動選択の一任で示してきた過去作も、主人公とプレイヤーの意識が乖離する場面はいくらでもあったと思います。主人公の気持ちとプレイヤーの気持ちがリンクした方が物語への没入感が出ますが、あくまでプレイヤーが主人公と重なるのは行動選択の部分であって、感情は離れたり近づいたりしてもおかしくないからです。このキャラを攻略しよう!というプレイヤー視点のやや欲深い感情を、主人公も同じように思っている必要はありません。むしろガツガツした感情を見せる主人公は好まれないだろうと判断してきた結果が、肝心なところでは(エンディングで攻略キャラが思いを伝える様式美を守るために)鈍感だったり難聴気味になる主人公の描写だったのだろうと推察できます。この傾向は、イベントを用意してボリュームアップすればするほど、恋愛のシチュエーションを準備すればするほど、シリーズが進んで過去作と被らない物語を作ろうとすればするほど現れると思います。

 主人公とプレイヤーの気持ちにズレがあっても、行動の結果が攻略キャラの言動に影響を与えている様子が感じ取れれば自分ごとのように満足することができたのが、これまでの『ときメモ』シリーズでした。GS4はプレイヤーと主人公の感情のリンク性も、行動がキャラクターに影響を与えていると感じられる描写も、どのキャラの攻略時においても欠けている印象が拭えません。
 結局、風真はプレイヤーの操作により主人公が好意を示していくら安心させたとしても最後の最後まで動こうとしませんでした。風真の決断は、主人公との3年間の歩みがわずかながら影響を与えているかもしれませんが、正直卒業というタイムリミットが迫っていたから動かざるを得なかったといってもおかしくないくらい風真の動くタイミングはギリギリ(3年目2月)です。そのきっかけとなるイベントも電話の盗み聞きから派生するという偶然性が強いものとなっており、全編を通して風真の問題は自己解決に近い形で描かれています。あらゆる点において、風真は主人公が好きと言う割には自分本位な点が目立っています。主人公と風真の恋にプレイヤーの介入は間違いなく不可欠と言えるものの、風真が重視するのは過去(思い出)と未来(願い事)で、現在(過程)をあまりにも見ていない。全く見ていないわけではないものの、いささか軽視の度合いが過ぎると思いました。

 
 あらためて私の考えをまとめると、風真は“テキスト中で描かれる主人公”が好きだと描きすぎだということです。第一に「風真は昔から主人公が好きである」、つまりは「風真の好きな主人公が昔のままの主人公である」と描いたのはゲーム性に合っていないと思います。風真がイベント内における主人公の行動から昔と変わらない本質が見えたことを嬉しがることで、風真の好きな主人公の姿は完全に固定され、それ以外の部分でプレイヤーがどんな行動を取ろうが好感度とパラメータ条件が足りてさえいればその一切を無視する形になりました。これまでのときメモはプレイヤーの行動選択によって主人公が成長し変化したことが好感度差分に反映され、エンディングを導いていましたが、風真はエンディングという結果に至ったとき、成長、変化している主人公を目の前にしても過去を振り返り、過去と地続きであるらしい主人公の一側面を好きだと伝えます。
 プレイヤーの数、周回の数、主人公につけられた名前の数だけ主人公のたどってきた過程は異なり、エンディング時点では数多の主人公の姿が存在します。そこには必ずしも過去との一貫性があると言えず、プレイヤーの数だけ違いがあるはずなのに、風真はどんな主人公においても好きな理由が統一・固定された過去に基づきます。つまり、現在を形作っていくシミュレーション要素に意味はなく、制作サイドが用意したアドベンチャー要素だけで風真と主人公の恋愛物語は成り立つということです。それは過去作のときメモが丁寧に作っていた恋愛の過程を軽視した機械的な恋であるということだと私は思っています。


 第二に、現行の本編は「主人公=プレイヤー=あなた」という距離感で物語を楽しめない作りになっています。率直に言うと、プレイヤーは風真と主人公の恋愛において部外者だということです。部外者であるというのは二人の恋愛を端から見たい人向けの物語になっているということではなく、プレイヤーキャラがプレイヤーキャラとして機能していないという、過去作と比較した場合の機能不全に関する指摘です。
 プロローグで風真が主人公を好きであることをプレイヤーへ周知したことで主人公=プレイヤーの図は崩れ、主人公のことが好きな風真にとって都合の良い行動をプレイヤーが選ぶ(つまり主人公視点で行動を選択するわけじゃない)という図式が生まれました。このときプレイヤーの感情移入先は極端に鈍感な主人公ではなくなり、想いが明確な風真へ自然とシフトするほか、人によっては所在なく2人の恋愛を眺める部外者となります。あくまでプレイヤーが操作できるのは主人公のはずなのに、風真のために行動を選ぶのだとしたら、主人公に名前を付けたり学園生活を疑似体験したりする要素は何のためにあるのでしょうか。GS4が公式サイトで明確に示していた「『はばたき学園』の高校生」の“あなた”は、一体どこに存在するというのでしょうか。行動選択次第であると言われても、行動選択の結果がたいして反映されないゲームにおいてプレイヤーは必要なのでしょうか。風真のルートはどこにプレイヤーの視点を置かせ、プレイヤーにどういう感情を抱かせたいのか、位置づけが定まらない宙ぶらりんなところに構造的欠陥を抱えていると思いました。

 

 

【結.『こうだったらいいのにな』】

 結局のところ、風真のおかしさは真告白の「ぴったり重なるんだ、思い出と今が」を導く過去の出来事の設定と、それに対応するスチルイベントを用意したことで風真の好きな理由が完全に固定され、統一化されたことが原因だと私は思っています。ここまでも主観を多分に含んだ風真に対する考察や推測を語ってきましたが、最後に私が「こうだったら良かったのに」と思う風真“像”や、風真が好きになる主人公“像”を述べて終わりにしたいと思います。

 

 

 【1】では主人公の変化や成長が攻略キャラとの恋愛進展のトリガーになるゲームにおいて、一途に思い続けたことに焦点を当てた攻略キャラの恋を描きたいのであれば、「昔から変わらない部分(=本質)」が好きだという描き方はメッセージ性がブレるので得策でないという話をしました。主に真告白条件となるイベント群が顕著ですが、風真に用意されたイベントには昔と変わらない主人公に喜ぶ描写が複数含まれ、たとえそれが風真が過去に見抜いた主人公の本質だとしても説得力がなく、実際変わらないことを確認したから喜んだように見えてしまいます。風真が過去に主人公に出会っていてその記憶をしっかり持っていることが序盤から確定的に描かれている以上、どうしても過去を基準にした話にしかならないというのは風真の造形の損な部分と言えるでしょう。プレイヤー・周回ごとに選択が変わり、主人公像が異なるため、本編で固定化して描かれている過去に風真が見出した「おまえらしさ」と重なるわけがないというのも問題です。過去作はそもそも過去の主人公を“事細かに”説明するメインキャラクターが存在しないため、風真独自の要素であると言えます。

 「主人公を変わらずに好き」と「ものの本質や価値を見抜く(=変わらない部分が好き)」の2つの要素がゴチャついている難点も踏まえて、シミュレーションゲームの流動的な主人公で2要素を共存させるならば、「変わっていこうとする部分が変わらない」とするか、「プレイヤーらしさ」を主人公に盛り込むしかないと思います。つまり、「素直」「優しい」「天然」などの風真が主人公と接しているときに見える性格に惚れた設定にするのではなく、成長して変わりゆく主人公の姿勢(過程)とありとあらゆる成長を遂げる可能性(結果)を好意的に感じる設定であれば良かったのではないでしょうか。積極的な姿勢や目標に向かって努力し成長する姿を好ましく思っている様子は、一応本編上でも描かれています。“努力する”部分を軸に据えつつ、変わっていく主人公を肯定的に捉えながらも、主人公を思う気持ちは変わらない(募っていくばかりである)というキャラクター像になっていたらどんなに良かっただろうか、と思わざるを得ません。

 

 風真ルート(あるいはGS4という作品自体)に決定的に足りないのは、主人公とプレイヤーの一体感だと思います。そのためには、主人公の“過程”を構築するプレイヤーの行動選択によって攻略キャラクター(風真)の主人公に対する思いが強まったと思わせるような説得力が必要だと思います。過去作においては、主人公とプレイヤーに一体感をもたせられていました。

 風真の複数のイベントのネタ元になっているGS1の王子キャラ(メインキャラクター)の葉月珪を例に出すと、彼は風真と同じようにはばたき市から海外へ引っ越してしまいます(GS4と違うのは、主人公がはばたき市に残ってるかどうか)。葉月珪のエンディングでは入学式当日に主人公が教会の女の子であることに気づきますが、自分は子供の頃と変わりすぎていたため、約束のことを主人公に伝えなかったことが明かされています。葉月珪いわく、入学当時の主人公は「あの頃と同じ、幸せそうな笑顔だった」。3年間の学校生活を経て葉月珪は主人公が変わっていないことを風真と同じように実感していますが、この葉月珪が言う不変を感じたポイントは、後の台詞から主人公の積極性にあったと考えられます。

 主人公の変わらなさを語った葉月珪は、続けて「おまえは、やっぱりあの頃のままで、笑ったり怒ったりしながら……。どんどん、俺の中に入ってきた」と、現在の主人公について述べています。葉月珪という寡黙で自分から積極的に動くということはあまりないキャラクターを攻略する上で、プレイヤーは必然的に一生懸命になるはずです。葉月珪をときめかせるために“頑張る”ことは攻略中の全プレイヤーに共通しつつ、その“頑張り方”の中身はプレイヤーごと、周回ごとに異なります。【4】においてゲームは受け手の能動性が高い媒体であり、プレイヤーが積極的に動くことで物語が展開していく傾向が強いことを述べました。GS1ではそのようなプレイヤーの能動性・積極性を指して「変わらない」と説明しているからこそ、エンディングで過去と現在を重ねても違和感なく受け入れられたのだと思います。

 

 プレイヤーが操作してデートに誘うなど攻略キャラクターへ積極的に関わることで次第に想いを寄せていく様子は、特に過去作のメインキャラクターで描かれていたと思われます。過去作もテキスト中で主人公の個性をそれなりに描いていましたが、プレイヤーと乖離せずそれなりに融合していたのは、全プレイヤーに大まかに共通する性質を主人公らしさに反映させていたからです。つまりは、攻略キャラクターに積極的に関わっていく前向きな姿勢をうまく主人公の性格や言動に取り入れていたから、ということではないでしょうか。

 また、パラメータを上げて攻略キャラクターの得意分野について知ろうとしたり、並び立とうと努力をしたりする姿を攻略キャラクターが好意的に捉えていく様子は、過去作ではパラ萌えで描写していました。風真はもとから主人公が好きなのに高パラメータを求めてくることと目利きができる設定が悪い方向にハマってパラ萌えに別の意味合い(パラメータで価値をはかる)が生まれてしまっていますが、本来のパラ萌えは努力を評価するシステムです。過去作においては名前を呼ぶシステムを導入したことで「主人公=プレイヤー=あなた」と捉えるのと同じように、完全に同一存在でなかったとしても主人公とプレイヤーに一体感をもたせる工夫があったように思います。

 

 一方で4の主人公は大接近モードやときめき会話、デート選択肢などで積極的な面は見えなくもないですが、風真攻略時は特に主人公の積極性が他キャラと比べて鳴りを潜めている印象があります。それは間違いなく、風真から主人公への矢印が大前提にあり、さらには主人公を極めて鈍感な人間として描いているからだと思います。互いの気持ちに気づいていない両片思いという関係性が存在するのは重々承知していますし、無自覚の恋も恋愛モノの王道ですが、主人公の行動によって恋愛が進展していくゲームにおいて「気持ちがわからない」にも限度はあるのではないでしょうか。

 そして、GS4では風真にホタル会話(恋愛の悩み⑩)において現在の主人公を「無条件で好かれてる」と言わせるくらい、何もしなくても好かれる、つまりは自ら積極的に動く必要がない人間として描いています。そもそも「無条件で好かれる主人公」は、シミュレーションゲームであるときメモのシステムに則れば本来存在しません。GS3にもやや言えることですが、入学当初から主人公を慕う人間が多いのは「もともと好かれるような人間だった」ように映ります。特に風真は過去作よりゆるく感じるパラ萌えの仕様で勝手にときめき度を上げ、強制日常のひとコマイベントで勝手に友好度を上げてくることで簡単に好感度が上がります。さらに主人公がいくら関わり続けようが悩みを打ち明けることはなく、卒業が迫ると勝手に自己解決して日本残留を決めてしまいました。もっと過去作の王子のように主人公の積極性、そしてプレイヤーの関与が意味を成すイベントを組み込んでいたら風真の言動の受け取り方は違うものになったことでしょう。

 

 全プレイヤー、全周回において共通しつつも統一されていない「主人公らしさ」について、ここまで「ゲームクリア(告白)を目標とした積極的な姿勢」を中心に述べてきましたが、最後の最後に主人公が有する「可能性」について触れたいと思います。ときメモは恋愛ゲームに主人公の育成要素を兼ね備えています。パラメータ上げを怠らずにたどり着いた3年間の学校生活の終点には、勉学に励んだ主人公も、芸術を極めた主人公も、体を鍛えきった主人公も、流行を掌握した主人公も、魅力を磨いた主人公も、母のような気配りを身につけた主人公も、あるいは複合的に能力を高めた主人公も、平均的なスペックを有する主人公も存在することでしょう。何らかの理由で攻略条件のパラメータを満たせないなど振るわなかった主人公もいるかもしれません。いずれにせよ、そのどれもが、ときメモというゲームを楽しみながら頑張ってきた無数の主人公(プレイヤー)たちがたどり着く数多の可能性です。入学当時の能力では1年目1学期末のテストでまぁまぁor悪い成績を取るほどに秀でた部分のない主人公はあらゆる姿に成長する可能性を秘めており、それこそが全プレイヤー、全周回に共通して言える主人公の“本質”になり得ると個人的に考えています。

 風真玲太というキャラクターは自他共に認める審美眼の持ち主であり、幼稚園の頃に主人公を“見つけて”います。風真の見つけた価値は、高校生活の終盤においてようやく評価され、他人が認めるものとなったことがローズクイーンイベントで描写されていました。風真が価値あるものを見極める眼に長けているというのなら、前々から「主人公の良さ」を知っていたというのなら、変化、成長する可能性そのものにときめきを見出すような造形にすれば、GSシリーズの概念を詰め込んだキャラクターになれたのではないでしょうか。多少の優遇が許されるメインキャラの特権をフル活用して、さまざまな可能性に到達した主人公に対してエンディングやゲーム終盤で言及する仕様があったら面白かったと思います。テキスト上においても主人公への愛を語りつつ、ゲームという隔てを飛び越えてGSシリーズを愛するファンやゲームを遊んだ全てのプレイヤーに対しても愛を伝えられるようなキャラクターになっていたと思います。

 

 実際、本編において風真が主人公の変化に対して寛容か否かを考えると微妙なところです。風真が高校入学当初は主人公を諦めるために日本に戻ってきたことや、どれだけ風真の攻略条件パラメータを満たそうと本命の相手が主人公にいる場合は告白をしない=身を引くことを踏まえると、成長した主人公が自分以外の相手を選んだとしてもエンディングでは邪魔をしません(逆転告白を除く)。システムが風真の行動を制限することで、他キャラクターの攻略時は主人公の心情の変化や能力的な成長を受け入れているように感じることは一応可能でした。

 ただ、風真当人の攻略時に風真に関われば関わるほど、風真は主人公に“おまえらしさ”を押し付けてきます。魅力以外満遍なく高い条件パラメータも、白色や大人びていない服(※露出の観点からセクシーはスキ)を好むのも、怖がったり頼ったりする反応を喜ぶ選択肢も、好成績を自分ごとのように求めてくるテスト結果も、さまざまな場面で風真は特定の主人公の姿を喜びます。

 もちろん、それはある程度は他の攻略キャラクターもしてきたことです。しかし、再三言いますが、風真は「昔から主人公が好き」という設定のキャラクターです。高校生になって再会してから約束の相手であることを主人公に確認しないまま関係を築き上げた佐伯瑛や葉月珪も、主人公のことが好きであったと物語冒頭では直接描かれていない幼馴染の桜井兄弟も、高校入学後に知り合った他の攻略キャラクターたちも、最初から好きであると明言されない以上は(王子キャラは出会ってから時間が経ちお互いある程度変化しているのが明白な状況では)、女の子の好みのタイプが存在していても全くおかしくありません。風真にだって“好み”というものが存在するだろう、というのはその通りで、“好み”とやらに合致した主人公の姿に喜ぶのは当たり前のことです。問題なのは“風真の好み”に合致しなかったときに拗ねたり、機嫌や態度が悪くなったりする点だと思います。なぜ好きな子に対して露骨に不満を示せるのか、あまりにも不思議です。

 

 描写が薄いのと作中のメイン登場人物たちには(主人公も含めて)およそ同じ態度で接するので忘れがちですが、風真は家柄や才覚から学校のみならずはばたき市単位で知名度や人気があり、外面が良い人と言えます。本編中に風真が作中モブと話しているときは、ナンパ男以外は基本的に丁寧な言葉使いをしています(窓際スチルだとやや粗いですが)。一方で主人公には気安い話し方をしており、趣味を「おまえイジリ」(※本編で風真が言う表現通りです)というくらい主人公をいじってきます(ちなみに『デジタル大辞泉』によると、いじりとは「他人をもてあそんだり、困らせたりすること」だそうです)。風真の好意の表し方は「特別だからこそ、人には見せないマイナス面を貴方にだけ見せる」という類のもので、感情を取り繕わなくていいと表現すれば聞こえはいいですが、率直に言えば身内認定した他人に対する甘えじゃないでしょうか。子供らしいといえば子供らしいですが、好きな子をいじめてしまう小学生レベルに幼稚で、年齢問わず大人でも高校生でもやる人はやり続けると思います。

 GS4の開発決定が発表されたリアルイベント(ときめきメモリアル Girl´s Side DAYS 2019 はばたきウォッチャー増刊号、2019年4月13、14日開催)後に発売した『B's-LOG 2019年9月』(同年7月20日発行)に掲載されたスタッフインタビューで、風真は「男はか弱い女子を守るもの、というちょっと古風な考え方を持っている」「主人公に対しては天邪鬼」「男の子として、女の子より優位に立ちたい」という設定があることが明らかになっています。古風な考えというのはいわゆる「女はこう」「おまえはこう」と決めつける思想でもあり、「おまえらしさ」が主人公の幅を狭める方向に働いている今の風真は「古風な考え方を持つ男の子」という開発開始当時から存在する設定との整合性があります。何かと禁止と言ってくる点も「女子を守る」ところから来ており、何かといじってくるのも「優位に立ちたい」気持ちからくるものに見えます(※主観)。主人公を決めつけるのが「古風」であることからくる言動というのならば、「今も昔も変わらずにおまえが好き」という主張は、“古風な考え”と組み合わせた結果、「昔と変わらないおまえが好き」に歪められたのではないかと思っています。

 

 『B's-LOG 2019年9月』からは「ちょっと古風」な設定は開発開始段階から存在することと、わざわざ雑誌で紹介するくらいにはキャラクターの根幹を担うものであったことがうかがえます。正直なところ、古風な考えの幼馴染設定が9年間離れていたわりに主人公を知った風な接し方をする不自然さや、かざぐるまの願い事で主人公を一途に思ってきたわりに扱いが無作法でぞんざいである違和感や、いずれ価値が発揮される主人公を発掘したと誇るわりに固定された“おまえらしさ”を押し付けてくる窮屈さに繋がっていると思います。

 確かに、古風設定が制作陣のやりたかったメインキャラクター像であるならば、それはそれでいいですし、自由にやったら良いと思います。ただ、その場合はやはり、私はゲームシステムに合わない印象を受けます。また、大衆の価値観が変わりつつある現代にあえて「古風」と表現できるほどに一般的と言えなくなった時代錯誤な価値観を持つキャラクターに挑戦するならば、賛否両論がつきまとうことは避けられないと考えます。そのようなキャラクターを好きになってもらえるように描写を尽くした結果が風真なのでしょうか。やりたい設定のキャラクターに挑んだ結果、結局モラハラヤンデレと言われているのならばどうしようもないと思います。少なくとも、「9年間離れ離れになっても変わらない一途な愛を向ける男」と「古風な幼馴染」設定は融合させるべきではなかったと、個人的に思っています。描きたい要素同士が衝突を起こさないか十分検討を重ねた上で焦点を絞ってほしかったです。

 

 結局、作り手が風真というキャラクターの軸に据えていた要素はなんだったのでしょうか。ここまで私は「変わらなくおまえが好き」と言えるほどの不変性を有した風真の“想う心”と仮定してきましたが、風真は古風設定から派生したと思われる主人公を型にはめて考える思想により、自分の思い通りにならないと不満が露骨に態度に表れています。主人公が変な行動を取ると喜ぶこともあれば、冷静に突っ込んで印象が悪くなることもあります。そもそも印象が悪くなる時点で「変わらなくおまえが好き」という告白に説得力はあるのでしょうか。ここにおいてもやはり、「変わらないおまえが好き」である印象を強く感じます。

 そもそも古風設定を否定すると風真の言動の大半は消え失せると思いますが、せめて主人公の言動にへそを曲げて謝らせるのをやめたらどうでしょうか。それだけで初見プレイヤーからの印象が悪くなる事態は格段に減ると思います。また、どんな主人公に変容しても風真が好意的に感じていることを表現できるようにデートの選択肢後の反応をいくぶんか柔らかくしたり、ド直球に×以下の評価が存在しない設定にしたりと、やろうと思えばできたはずです。そうしなかったのは、拗ねる姿がプレイヤーから好意的に捉えられるはずだという自信が作り手にあったのかもしれません。子供っぽい言動が人気を集めた佐伯瑛の二番煎じをしようとした可能性ももちろんあると思います。佐伯瑛は主人公が(プレイヤーもむっとするような)佐伯瑛の言動を肯定せず反発し続けたからこそ受け入れられたのであって、子どもっぽい男が一人相撲をするだけ、一方的に主人公をいじり倒すだけでは得られない相乗効果があったはずです。

 

 風真の「変わらなくおまえが好き」という告白は、過去から高校入学までの離れ離れだった時期を主に言っているとみられますが、実際に変化を目の当たりにしているはずの高校生の主人公に対して伝えてこそ真実味が増す言葉です。確かに高校生になった時点で変化していることは大前提にありますが、真告白がそうであるように、自分の思いが変わらないことを決定づけたのは、過去と共通する「変わらない主人公の姿」なのだろうと受け取れてしまいます。どうしても変わりゆく今の主人公に焦点を当てて告白をすることは難しいのでしょうか。あるいは、自分が見定めた変化しか(自分と付き合う場合は)認められないものでしょうか。主人公の有り様を狭めれば狭めるほど、主人公と未来永劫共にいたいと願う風真の可能性も狭まっていると思います。現行の風真がそれを望むように作られているならば、それはそれでよいのだと思います。

 ですが、私は主人公も風真も、シミュレーションゲームのキャラクターであるからには数多の可能性が眠っていてほしかったです。そして、風真を「GSの制作背景をキャラ設定に交えた作品の概念的なキャラクター」として設計したのならば、過去作の王子のままパラ条件を高水準1パターン(魅力以外150)に定めず、特定のパラメータに特化(たとえば300以上)した際にもその姿を認める姿勢が感じられたら良かったと個人的に思っています。終盤やエンディングで最も高いパラメータに言及する台詞差分を設けたり、可能性に寛容な姿をイベント等で提示したり、あるいはパラメータ関係なしに教会で告白する条件を用意したり。過去ばかり振り返っていた風真が現在の主人公に目を向けるまでの過程がしっかりと描かれていたら、最高に私の“理想”だったと思います。まあ、そんな理想をゲーム内で実現することはありませんが……。可能性に夢を見たまま、今後も変わることのないGS4と風真にあらためて思いを馳せながら、この記事を閉じさせていただきます。ありがとうございました。

 

 

【参考】

コナミデジタルエンタテインメントときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart 』、2021年10月28日発売

コナミデジタルエンタテインメント(旧コナミ)『ときめきメモリアル Girl's Side』、2002年6月20日発売

KADOKAWAときめきメモリアル Girl’s Side 4th Heart 公式ガイド』、2021年10月28日出版

KADOKAWA『B's-LOG 2019年9月号』、2019年7月20日出版

・『ときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart』公式サイト(https://www.konami.com/games/girls_side/4th_Heart/)

Weblio辞書(https://www.weblio.jp/)

 

【風真ツイートまとめ】

・真・バーサス風真(https://min.togetter.com/KVp0J1E

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・傘無(https://twitter.com/kasaneTMM)