『天獄ストラグル』に引用される「三瀬川」の和歌について

※1章以降に天獄ストラグル』の最終盤までの※※※※※※重大なネタバレ※※※※※※※を含みます。とりかへばや物語』についても展開を詳しく紹介する場面があるため、両作品について全く知らないまま遊びたい、読みたいという方は読むべきでないことを前置きしておきます。どちらかというと『とりかへばや物語』を知らない人向けに書いています。

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【目次】

 

 

 

【序】

 今年7月末にアイデアファクトリーが発売した女性向け恋愛ゲーム『天獄ストラグル -strayside-』(以下獄スト)において、プロローグでは以下の和歌が登場します。

 

 

 わがために えに深ければ 三瀬川 後の逢瀬も だれかたづねん

 

 

 この和歌は平安後期に作られたとされる男女きょうだいの入れ替わり物語『とりかへばや物語』から引用された作中歌です。

 『デジタル大辞泉』によると「三瀬川」は「三途(さんず)の川のこと」で、「三途の川」については「死後7日目に渡るという、冥途にある川。三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって、善人は橋を、軽い罪人は浅瀬を、重い罪人は流れの速い深みを渡るという」と説明しています。三途の川といえば亡者の着物をはぎ取る奪衣婆や、三途の川の渡し賃(六文銭)などが比較的ポピュラーな話かと思いますが、地獄や六道をテーマにしている『獄スト』では奪衣婆や渡し賃に関するエピソードは(おそらく)存在せず、あえて若干マイナーな三途の川と男女の恋愛にまつわる俗信を採用していました。

 共通ルート序盤では、作中における地獄で「三途の川の阿国さん」という「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来た」伝承があり、地獄で責め苦を受け続けている女性たちがそのエピソードをロマンチックなものとして受け取り憧れを抱いていることが描かれています。その後、主人公・閻魔凜(※記事中では主人公のデフォネームを使用しています)が三途の川のほとりで「わがために~」の和歌を呟くと、「三瀬川でしたら、この俺が貴女を背負いましょうか」といきなり後ろから声を掛けられる─。これが主人公と石川五右衛門(攻略キャラ)とのファーストコンタクトであり、この時点では和歌の意味に特別触れることなく物語が展開していきます。

 

 

 『とりかへばや物語』において「わがために~」の和歌が登場する場面の『新編日本古典文学全集』の注釈(208〜209ページ)では、「女は、最初に契った男に背負われて(三途の川を)渡ると信じられていた」と紹介されています。その上で、和歌の現代語訳を「私との宿縁が深いのでこうして逢えたのです。三途の川の瀬を渡るときもほかの誰があなたを探して背負ったりしましょう。あなたにとって私が最初の男なのですよ」(208ページ)と訳しています。

 この三瀬川にまつわる俗信がどこから出てきたのか、当時の人々が享受するものだったのかについては複雑なので割愛しますが、少なくとも『とりかへばや物語』の中では和歌が詠まれる場面の前後の流れから「女性が初めて契りを交わした(=肉体関係を持った)相手が三途の川で女性を背負って渡る」という俗信があったことを前提にしていると言えるでしょう。『獄スト』では『とりかへばや物語の作中歌に登場する「三瀬川」から読み取れる俗信を物語の構成要素として用いながら、三途の川や各個別ルートで「(男性が女性を)背負うこと」に焦点を当てたり、三途の川に関する別の和歌を引用したりとさまざまな形で使われていました。

 

 

 本記事は『獄スト』で取り扱われた『とりかへばや物語』の和歌がどのような場面で読まれたか、ある程度紹介するとともに、和歌を引用した意味合いや物語への効果を考察していくものです。筆者は個人的な関心から和歌そのものを知っていましたが、『獄スト』内に引用されている和歌の意味が分からなくとも、インターネット検索をすれば和歌の内容は知ることができますし、『とりかへばや物語』の知識がなくともきちんと本編内の描写や少し調べるだけで理解できるものとして仕上げている印象があります。「元ネタを知ることが必須な物語である」と強調する意図はなく、あくまでフレーバーや補足程度の情報としてお読みいただけたらと思います。複雑な設定を比較的わかりやすく説明しようとした結果、原典の内容を忠実に紹介できていない場合がありますので、興味のある方はお好みの現代語訳付きの『とりかへばや物語』を実際に読んでみることをお勧めいたします(とりかへばや物語を題材にした漫画もありますが、改変部分が多いため実際の物語を知る目的には向きません)。基本的に『獄スト』を遊んでいて『とりかへばや物語』を知らない人向けに書いており、両作品の展開を記述しているため、どちらもネタバレなく楽しみたい方向きの記事ではありませんので、ご注意いただけると幸いです。

 

 

 

 

【1.『とりかへばや物語』について】

 『獄スト』の話に入る前に、『とりかへばや物語』についてさっくりざっくりと紹介させていただきます。『とりかへばや物語』は平安時代後期に書かれた作者不詳(性別も不明)の物語で、タイトルには「とりかへ(取り替え)・ばや(…たいなあ、自身の願望を示す表現)=取り替えたいなあ」の意が込められています。『とりかへばや物語』の通称で現存している作品は、元々あった物語の改作であり、オリジナルの物語は残っておらず、『無名草子』という物語評論に存在が語られるのみとなっています。

 

 

 物語は宮中に仕える1人の男のもとに活発で男性的な才能や性格を持つ女の子と、内気で女性的な才能や性格を持つ男の子が生まれたところからはじまります。このきょうだい2人は周囲に性別を誤解されたまま育ち、「性別を偽る」という大きな秘密を抱えたまま宮中で働くこととなりました。この2人に対して父親である男(左大臣)の「2人の性を取り替えたいなあ…」という嘆きが物語のタイトルになっているというわけです。

 最初はうまく性別を隠して過ごしていたきょうだいですが、男装をしていた姫君の妊娠、失踪をきっかけに物語は大きく動き出します。再会したきょうだいはお互いの立場、装束を取り替え、性別に見合った姿に戻ることによって、きょうだいは姫君が帝に見初められたり、男君が大いに出世したりと栄華を極めましたとさ……といった形できょうだいの物語は締められます。このように、『とりかへばや物語』には2度にわたる役割、性別に見合った衣装への「とりかへ(入れ替わり)」が描かれており、序盤の性別の「とりかえ」と、中盤の立場の「とりかえ」を柱に展開していく物語といえます。きょうだいが性別を偽って出仕したことにより、前帝の娘(女東宮)が女装した男君と一線を越えてしまったり、女装の男君のもとへ好色の男が言いよって来たり、男装の姫君が女性であることを隠して結婚した相手(女性)がなぜか妊娠してしまったりと、外見上の性別を偽っているからこそ起きる本来ならありえない展開が次々と起こるのもこの作品の魅力だと思います。

 

 

 『とりかへばや物語』では登場人物の名前がほとんど明かされず、物語の時間軸における役職名等で呼ばれるため、物語の進行に伴って本文中の表記が変動していきます。原典に基づくと誰が誰だかわからなくなってしまうので、本記事では登場人物の名称を統一して表記しています。記事内で使用する名称と物語前半(きょうだいが異性装をしているとき)における相関図は以下の通りです。

 

 

(図:『とりかへばや物語』主要登場人物の相関図と記事内での呼称)

 

 

 

【2.「わがために」の和歌:『とりかへばや物語』の人物紹介】

 本章では『獄スト』の物語冒頭でも紹介された「わがために えに深ければ 三瀬川 後の逢瀬も だれかたづねん」の和歌に関わる『とりかへばや物語』の登場人物3人について紹介します。

 

『獄スト』では「わがために〜」の和歌は作中の登場人物が何度も口にしていますが、どうやら現代語訳はその和歌に限り紹介していないようです。五右衛門√では五右衛門と閻魔凜が死ぬ前に出会っていたことが明らかになります。生前に川で死のうとした閻魔凜を背負って助けてた五右衛門と、五右衛門√最終盤で閻魔凜を背負って家に帰ろうとする五右衛門の過去と現在が重なりますが、さまざまな経験を通して精神的なアップデートを経てお互い変化している。閻魔凜の死は五右衛門が原因でもあり、過去が消えてなくなることはありませんが、その過去を「ともに背負っていく」とまとめたのが構造的に美しいと感じました。

 

 この和歌は引用元の『とりかへばや物語』では図②の宰相中将から四の君に対して詠まれています。ものすごくざっくり言うと、結婚をしている女性(四の君)と無理やり関係を持った男性(宰相中将)が詠んだ歌です。まずは和歌にまつわる『とりかへばや物語』の人物から紹介していきます。

 

 

①四の君(和歌を贈られた人)

 四の君は右大臣家の4番目の娘で、性別を偽っている男装の姫君の妻となった人物です。

大臣家は有力な貴族で、四の君の姉たちは前帝や帝に嫁いでいます。人並外れた美貌と才覚から世間を騒がせている左大臣家の男君(実際には男装をしている姫君)を右大臣は四の君の夫に選びました。四の君は最初こそ「私だって帝と結婚してもおかしくなかったのに」と不満を覚えますが、言葉を交わすうちに男装の姫君の人柄を好ましく思うようになり、肉体関係こそないものの夫婦仲も良好でした。

 もちろん男装の姫君は、自分の性別を四の君には明かしていません。男装の姫君と四の君という女性2人で成る夫婦関係は、本来ならば成立しないことは言うまでもないことでしょう。四の君パパの右大臣は左大臣家の息子として帝に仕えているのが「男性」であることを大前提に娘との結婚を持ち掛けています。この結婚は家の存続や政治的な駆け引きのもとに行われており、娘に良い相手を見繕ってやろうという父親の愛情も当然うかがえますが、基本的に子を為して一族を次世代まで残していくことも織り込んだうえでの婚姻です。にもかかわらず、きょうだいの性別を偽るという重大な秘密を抱える左大臣家はこの縁談を承諾してしまいました。理由は宮中への出仕はなんやかんや成功したからだとか、世の中を知らない四の君は男装の姫君を不審に思わないだろうだとか、色々あるのですが……。子どもたちの幼少期には「とりかえばや」と悩んでいた割に楽観的なこの判断は、のちに騒動を引き起こします。

 そんなわけで、四の君は夫が実は女性であることを知らぬまま、そして夫が全く手を出してこない(正体がバレるので出せるわけがない)ため処女のままでいました。この「夫はいるけれど、処女である」という歪な状況が、「わがために~」の和歌の前提にあります。一応補足しておくと、『とりかへばや物語』は平安時代のお話であり宮中のお話であり家柄や血が重んじられる有力貴族たちのお話であり、通い婚の時代に夫婦が逢うことは基本的に性交を伴うとみられます。「跡継ぎを作ることや性行為そのものに興味がない男もいる」と個性として受け止められることもなければ、「結婚はしたが子を為せない体なので性交をしなくてもおかしくありません」という言い訳も、この物語の中においては通用しません。男装の姫君の極めて「誠実」な振る舞いは、世間知らずの四の君は騙せても右大臣や周囲の人物に知られれば異常なことをしている─つまりは普通の“男性”らしくないということ─は踏まえておきたいポイントです。

 

 

②宰相中将(和歌を詠んだ人)

 宰相中将は式部卿宮という貴族の息子で、男装の姫君より少し年上の好色な男性です。男装の姫君とおおよそ同時期から宮中に仕え、男装の姫君と同じように若くして出世頭であり、男装の姫君と並んで美男子として宮中を賑わせてきた人物となります。

 宰相中将は物語中で男装の姫君と並べられ、比較され、対比構造的に描かれています。男装の姫君は真面目で女性になびかない一方で、宰相中将は女性や恋愛が大好きな“好色”な男性でした。容貌は双方美男子ですが男装の姫君のほうが優れているとされ、移り気で女性を想わない時期がない極端な色好みであることが玉に瑕と宮中の女性たちに思われています。この「真面目」と「好色」という対称的な2人の人物造形は『源氏物語』の薫と匂宮に重ねているという研究もあり、『とりかへばや物語』が『源氏物語』の影響を大いに受けていると考えられる一要素です。男装の姫君は基本的に宰相中将の恋愛体質にあきれている様子が物語前半の随所にみられますが、彼らは仕事仲間であり、同年代の友人でもあり、作中で唯一男装の姫君との日常的な交流が描かれていることは特筆すべき点です。

 四の君の結婚前、宰相中将には特に気になっている意中の女性が2人いました。それは右大臣家の四の君と、左大臣家の娘(=女装の男君)です。2人の姫君はどちらも「とても美しい」と噂になっており、宰相中将はどうにか一目見たい、お逢いしたいと思っていました。しかし移り気が過ぎて警戒されていたのか、ついぞその恋は実らぬまま四の君は男装の姫君の妻になってしまいました。男装の姫君が女性に言い寄らない真面目な人柄であることをもちろん宰相中将は知っているので、「俺の方が先に四の君のことが好きだったのに!」と羨み恨む気持ちがあったことが、和歌の詠まれる前提にあります。

 

 

③男装の姫君

 和歌を詠んだ相手、贈られた相手ではありませんが、この和歌の背景を語るにあたり欠かせない人物である男装の姫君についても少しだけ紹介します。

 男装の姫君は左大臣の娘であり、女装の男君とは異母きょうだいの関係にあります(※双子ではありません)。幼少期から外遊びや勉強に意欲的で、「左大臣家のこちらの母親から生まれたのが女の子だと聞いていたが、聞き間違えていたようだ」と勘違いされ、周囲から男の子扱いされてきました。宮中で働くようになってからも才覚をいかんなく発揮し、帝からも一目置かれる存在として活躍します。宰相中将の項目で紹介した通り、とてつもない美男子なので宮中で働く女性たちの評判の的になっていましたが、真面目(…というより実際は女性)であるため、基本的に女性に対して自らの意思でアプローチをかけることはなく、高貴な身分の女性には付き合いで多少和歌を詠み交わす程度でした。評判の美貌は女性だけではなく男性の帝や宰相中将からも注目を集め、「このような美しい男と血がつながった左大臣家の姫君もまた美しい女性であるに違いない」と、男装の姫君を通して女装の男君の容姿を想像する姿が描かれています。2人は逢ったことのない姫君の姿を思い浮かべますが、実際に左大臣家の姫君であるのは目の前にいる男装の姫君当人であるという構造的な愉快さが描かれています。

 異常なスピードで出世し、右大臣家の四の君と結婚するなど悩み事のない順風満帆な人生を送っているように傍から見える男装の姫君ですが、心の中は「世づかぬ(世間並みでない、普通じゃない)身」である自分自身の境遇を嘆き続けていました。男性に交じっても違和感なく、何なら男性より優れた資質を持ち合わせて政治を動かすことに長けていた男装の姫君は、悩み事が何一つなさそうな恵まれた生活を送る一方で厭世的な気持ちを強め、一刻も早く世俗を捨て出家したいと心の底で思っていました。宮中に出てしばらくした時点から男装の姫君は男性ライフを満喫しているわけではなく、苦悩の日々を過ごしています。

 

 

 長々と登場人物について説明しましたが、男装の姫君と四の君は女性同士の夫婦であり、男装の姫君と宰相中将は同僚兼友人であり、宰相中将は四の君に言い寄っていたが男装の姫君と四の君が結婚したことで失恋した、という点だけわかっていれば十分だと思います。

 

 

 

 

【3.「わがために」の和歌:『とりかへばや物語』の場面紹介】

 次に、和歌が詠まれた状況をさっくりと紹介していきたいと思います。

 

  人物紹介の通り、四の君が男装の姫君の夫となったことで、宰相中将の恋は一度終わりました。実のところ四の君と男装の姫君の婚姻は左大臣家と右大臣家の結びつきを強めるための政略結婚的な側面が強く、現代のように2人が直接対面して恋に落ちて結ばれたわけではありません。そのうえ男装の姫君は本来の性別を隠していたため、子どもは望めないことを知っていながら左大臣家を騙す形で夫婦関係を続けていました。

 ある時、宰相中将は友人である男装の姫君のもとを一人で訪ね、宿直で不在だったため帰ろうとすると、琴の音色が聞こえてきました。琴を弾いていたのは、自分の手が届かぬ人になったと諦めていた四の君。どうにも気になってしまい忍び込んでその姿を初めて見ました。四の君は人に見られていると気づいておらず、月を眺めて和歌を詠みます。その和歌は結婚をして幸福のさなかにいる人が詠むものと思えない悲しみをにじませていました。男装の姫君のただ一人の妻であり、とても大事にされていると聞いていた四の君に、一体何を悲しむことがあるのか。去りがたくなった宰相中将は部屋に押し入って四の君と対面し、こらえきれなくなった想いを吐露し、半ば無理やり契りを交わしました。このとき近くにいた四の君のお世話係の女性が宰相中将の闖入をおおごとにせず、誰にも知られないよう隠す道を選んでしまいます。

 宰相中将はこの一夜に四の君が処女であること、つまり夫の男装の姫君が一切四の君に手を出していないことを知りました。この物語において処女は契りを交わせば絶対に分かるものとして描かれており、さらに肉欲を伴う恋愛を至上としている傾向があるので、「夫婦だろうが性交してるとは限らないだろう」的なツッコミは一度置いておきたいと思います。

 

 

 夜明けまで四の君とともに過ごした宰相中将は、離れたくないと思いながらもバレるとまずいので帰る際、四の君に対してその場で和歌を詠みました。それこそが「我がために えに深ければ 三瀬川 のちの逢瀬も 誰かたづねん」の和歌でした。宰相中将と四の君が契りを交わしたのは、たまたま男装の姫君が不在で、たまたま屋敷の警備がザルで、事なかれ主義のお世話係が不法侵入と性的暴行をとがめず手助けをした偶然によるもので、本来起きない、起きてはいけないことです。宰相中将にとって奇跡のような有り得ない出来事であり、次の機会は二度と訪れないかもしれない。「私と貴方が結ばれたのは、縁の深さによるもの。三途の川で女性を背負って渡るのは初めて契りを交わした男であるというのなら、夫婦として今世で結ばれなかったとしても、三途の川のほとりで再会できる」という思いが和歌に込められていると考えられます。

 

 

 この和歌は「今世では二度と会えない」ことを嘆き悲しむものではなく、あくまで「三途の川で会える」こと、つまりは再会を強く示す内容になっています。この出来事の後、宰相中将は二度と四の君に会えなかったわけではなく、お世話係の手助けにより四の君と何度も逢瀬を交わします。部屋を出ていく前に宰相中将は、四の君に逢うために協力が不可欠な世話係の女房と四の君本人に次の機会を約束させました。つまり宰相中将は、この偶然得た好機を一度きりで終わらせる気はさらさらなかったということです。和歌自体は三途の川での再会を約束していますが、あくまで例えであり、後の再会を示唆するものとして使われていると捉えています。

 宰相中将と四の君が不倫以外の何物でもない、周囲に絶対にバレてはいけない秘密の逢瀬を重ねた結果、四の君は懐妊してしまいました。四の君の不倫や男装の姫君の本当の性別を知らない右大臣家はこのオメデタを喜びますが、左大臣家側は四の君の子どもが男装の姫君の子どもであるはずがない(男装の姫君は女性だから)ことを知っているため、大きなショックを受けます。男装の姫君当人は特に、「四の君と契りを交わした男は、四の君が処女であったことを不審に思うはず。その男から自分はどれだけおかしな人間であると見られるだろう」と恥じ入り、以前のように四の君に愛情を注ぐこともなくなり、余計仏門に入りたいと思うようになります。

 

 

 余談ですが、レイプまがいのことをされた人妻の四の君は宰相中将のことをどう思っていたかというと、情熱的な思いに少しずつ心を開いていった様子がちょくちょく見受けられます。男装の姫君は後に宰相中将と肉体関係を持ちますが、その際に宰相中将のもとに送られてきた四の君からの文を見る機会がありました。文には「上に着る 小夜の衣の袖よりも 人知れぬをば ただにやは着る」と和歌が書かれていました。内容は「夫(男装の姫君)の昇進よりも、隠れて関係を持った貴方のほうが気になります」といったところで、宰相中将に対する愛情がうかがえるものでした。四の君にとって、肉体的な関係を持たずとも男装の姫君と過ごす日々は特別なものでしたが、一心不乱に行動で愛を伝えてくる宰相中将に根負けするように、少しずつ心を開いていきました。

 

 

 以上が「わがために~」の和歌が詠まれた状況や背景となります。改めてまとめると、他人のものとなってしまった想い人に対して、初めて契りを交わした自分との縁深さや死後(あるいは今後)の再会を強調するのが『とりかへばや物語』における「わがために~」の和歌でした。『とりかへばや物語』においては横恋慕的な状況下で三途の川の俗信が使われており、直接的に言ってしまうと人妻を寝取った、無理やりレイプをしたということなので、手段として肯定できるものではありません。

 

 今回の話には関係ありませんが、『とりかへばや物語』にはもう1首、「三瀬川」の俗信をもとにした和歌が登場しており、写楽√で引用されています。この和歌は二度目の「とりかへ」で男装をやめた姫君に対して恋焦がれる帝が詠む和歌であり、「わがために~」の和歌と対になるものです。写楽√の最終盤で出てくる「三瀬川 後の逢瀬は知らねども 来ん世をかねて 契りつるかな」(獄スト内では和歌について「貴女にとって俺は初めての男ではないらしいから、三瀬川で逢えるかは分からない」「だからせめて、来世には逢瀬が叶うように契っておこう」と写楽が現代語訳をしている)も『とりかへばや物語』を踏まえると大変興味深い引用であると感じています。気力があれば後日加筆するか、別記事として投稿したいと思います。

 

 

 

 

【4.「わがために」の和歌:『獄スト』における引用箇所と出雲阿国

 次に、『天獄ストラグル』において「わがために~」和歌が引用された意図について触れていきたいと思います。

 

 獄ストにおいて「わがために~」は以下の箇所で引用されています(※抜けがあるかもしれません)。

 

①物語冒頭の閻魔凜の独白。直後に五右衛門登場。

 

②五右衛門ルートの閻魔宮での閻魔大王小野篁の会話。

 

③五右衛門ルート終盤の出雲阿国閻魔大王小野篁がいる場で五右衛門について話す中で引用。

 

④五右衛門ルート終盤の閻魔凜と石川五右衛門の会話。

 

 

 いずれの場面においても、基本的に作中では閻魔凜が「死んで三途の川の畔に立つ女」であり、石川五右衛門が「女を迎えに来た生前愛し合った男」であると示唆されていると考えられます。

 

 ここで作中おける「三途の川の阿国さん」の伝承「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来た」の真相について触れておきたいと思います。物語冒頭における伝承は「生前愛し合った男」という婉曲的な表現を使用していますが、各ルートにおいてお七が連呼するように、実際は「女性が初めて性交をした男性」を示していることが明示されています。そして、ここからが若干ややこしいのですが、実のところ出雲阿国の初めての相手は那古野山三郎ではなかったことも与那ルートで明かされます。つまり、

 

伝承→「死んだ出雲阿国が川の畔に立った時、生前愛し合った男(=初めて性交をした相手=那古野山三郎)が迎えに来た」

事実→「死んだ出雲阿国が川の畔に立った時、生前愛し合った男(=那古野山三郎≠初めて性交をした相手)が迎えに来た」

 

ということになります。伝承と事実が異なる理由は、「生前愛し合った男」の解釈に幅を持たせたかったからなんじゃないか、というのが個人的な見解です。「わがために〜」の和歌に限らず、天獄ストラグルは三途の川の俗信や「背負うこと」を全攻略キャラのルートで物語に落とし込んでいますが、「死んだ彼女が川の畔に立った時、生前愛し合った男が迎えに来る」という俗信に閻魔凜と各キャラクターの関係性を当てはめるとき、「初めて性交をした相手」と受け取った方が良い場合もあれば、「生前(順番も肉体関係の有無も抜きにして)愛し合った相手」と受け取った方が良い場合もどちらも存在します。攻略キャラクターの大半は三途の川の伝承を当てはめるときは単純に「愛した男が女を背負う」という俗信から物語を展開している部分が多く見られます。「背負う」というモチーフを各ルートでどう表現しているかについては割愛しますが、各ルートの描写の違いを見比べるのも一興かと思います。

 

 

 

 

【5.「わがために」の和歌:両作品の共通点】

 本記事の2、3章では、「わがために えに深ければ 三瀬川 のちの逢瀬も だれか尋ねん」について、元ネタである『とりかへばや物語』でどのように和歌が登場したか紹介してきました。

 「わがために~」の和歌は親友(見た目は男だが実際は女)の妻の処女を無理矢理奪った直後の場面で登場し、死後あるいは今後の再会を誓うような形で詠まれています。4章では獄ストにおける「わがために~」の和歌の登場箇所を挙げ、主に五右衛門√や五右衛門の登場するシーンで使われていることを確認しました。獄ストでは「三途の川の阿国さん」の噂と、実際の出雲阿国の境遇が異なるという設定にすることで、三途の川で男性が背負う相手を「初めて契りを交わした女」「生前(順番も肉体関係の有無も抜きにして)愛し合った女」のどちらとも受け取れるようにしています。これらを踏まえた上で、『獄スト』でなぜ『とりかへばや物語』の和歌を用いたか、両作品の展開や登場人物の共通点はなんであるのか、改めて考えていきたいと思います。

 

 

 『獄スト』において、「わがために~」の和歌は、引用箇所の多さから分かるように五右衛門に対応しているとみられます。五右衛門は攻略キャラ5人のうち4人の√をクリアしないと√が解禁されない攻略制限キャラです。五右衛門は「俺は今でも……───あんたを愛してるよ」(共通√)、「いやー別に俺としては目合うのは大歓迎なんだけどさ」(写楽√)などと一人で呟いたり、無茶をして閻魔凜を傷つけた与那に本気で怒ったりと閻魔凜を物凄く気にかけている様子が物語中に幾度も描かれており、プレイヤーが「記憶のない閻魔凜と生前深い仲の人だったのだろうか」と想像することは極めて容易な描かれ方をしています。物語序盤に登場する「わがために~」の和歌も、五右衛門と閻魔凜の関係性を匂わせる要素の一つであると考えます。

 泡沫と呼ばれる存在の閻魔凜には生前の記憶がありませんが、記憶がないだけで人間として生きていた時代があります。五右衛門は閻魔凜が生前に出会っていた想い人の「大五郎さん」であり、五右衛門√ではこれまで各√で匂わせられながらも明確な情報がなかった2人の過去が明かされていきます。

 

 五右衛門は脱獄した罪人たちを捕まえるために閻魔大王が選抜した4人のうち1人であり、遅かれ早かれ閻魔大王の思惑によって2人は再会を果たすこととなるのですが、閻魔宮で対面する前に、閻魔凜がひそかに憧れていた「三途の川の阿国さん」の噂の舞台である三途の川のほとりで偶然出会ったのは、「閻魔凜と五右衛門に深い縁があったから」こそではないでしょうか。宰相中将が四の君に対して“後の再会”を強調した和歌を詠んで実際に再会できたように、閻魔凜が「わがために~」の和歌を一人呟いた後に登場する五右衛門は、「閻魔凜にとって初対面の男ではなく、縁の深さゆえに再会した男」になると思います。

 

 

 各√で五右衛門と閻魔凜のつながりを感じさせる描写を用意している作り手には、プレイヤーに五右衛門と閻魔凜の関係性に気付いてほしい、ずっと気にし続けてほしいという意図があるように感じられます。「わがために~」の和歌を引用するのは、和歌の意味や元ネタとなる作品の展開を知っているプレイヤー(筆者含む)からすると、物語開始直後から「五右衛門は閻魔凜にとって“昔の男”ですよ」と答えを言っているようなものです。もちろん物語冒頭から五右衛門と閻魔凜の隠された関係性を察しても、そもそも共通√や各個別√でもっとわかりやすく示唆する場面はあるので気づくタイミングが早くても特に意味はなく、最初からニヤニヤできるぐらいのアドバンテージしかありません。

 たとえ五右衛門と閻魔凜に関係性があると分かっても、恋人だったのか、両片想いだったのか、体の関係があったのか、五右衛門√で説明されるまではわかりません。物語における三途の川の伝承も、背負ってもらうための条件がひじょうに曖昧であり、都市伝説やおまじないに似た信憑性が必ずしもないものであるため、和歌に関する知識があるがゆえに「どこまで」関係が進んでいたか筆者きは掴めなかったので、誰もが知っているわけではない古典作品からの要素の取り入れ方としてバランスがいいと感じました。

 

 

 補足しておくと、この和歌と三途の川の伝承は本来「肉体的な関係を持つこと」に重きが置かれていますが、石川五右衛門は「閻魔凜の初めての男」というには二人の関係性はピュアなもので、生前は精神的にも肉体的にも結ばれていません。事実として五右衛門は死んだ後に三途の川で閻魔凜を背負えていないわけですから、五右衛門は「わがために〜」の和歌を詠んだ宰相中将の境遇と重ならないという点は重要であると考えます。あくまで乙女ゲームの構造を見たときに、他の攻略キャラクター4人と比較して「主人公のことを生前から愛していた男=初めての男」であると言えるのが石川五エ門です。基本的に乙女ゲームは物語開始地点からよ~いドンで主人公と攻略キャラクターが仲を深めていきますが、近年のアイデアファクトリー(オトメイト)作品には物語開始時から主人公のことを好きだった設定のキャラクターがチラホラ見受けられます。「わがために〜」の和歌はそんな「最初から主人公のことが好き」なキャラクターの優位性(もともと縁が深かったこと)を表現するために使われていると推察できます。

 

 

 

 「わがために~」の和歌は五右衛門と閻魔凜の関係性を示すのに適していると考えますが、五右衛門は結局女好きでも女房がたくさんいたわけでもないため、「宰相中将に似ている」とは言えないと思います。色好みという点で考えるならば、一番近いのは写楽です。

 作り手が実際に意識しているか定かではありませんが、『とりかへばや物語』の宰相中将と「わがために~」の和歌の状況に最も近い『獄スト』の登場人物は、“名執四鹿”であると考えられます。宰相中将は、友人である男装の姫君の妻であり、自分が以前から想いを寄せていた四の君と無理やり契りを交わしました。一方で四鹿は旧知の仲である石川五右衛門の想い人だった閻魔凜を無理矢理犯して殺しています。この惨たらしい事実と三途の川の伝承を踏まえると「閻魔凜の初めての男」は、肉体的関係の観点から見れば名執四鹿ということになるのではないでしょうか。四鹿も実際に三途の川で閻魔凜を背負ったわけではありませんが、結果的に四鹿は脱獄囚を捉えるために人間界を訪れた、生前の記憶をなくした閻魔凜のもとに再び現れることとなり、こちらも五右衛門と同様に深い(因)縁ゆえに死後も再会したと言えます。また、名執四鹿はハリズアーカイブのメモリーで「五右衛門は昔からいい奴」「俺が欲しがるものは譲ってくれる」「だから一番のお気に入りも譲ってくれていいはず」と述べており、「俺が欲しがるもの=一番のお気に入り=閻魔凜」と受け取ることが一応可能です。もしかしたら名執四鹿も閻魔凜を好きである可能性を示唆する記述と言えるでしょう。この両片思いの五右衛門と閻魔凜と、五右衛門への愛憎と閻魔凜への慕情が可能性の一つとしてうかがえる名執四鹿を『とりかへばや物語』に当てはめると、「夫婦である男装の姫君(五右衛門)と四の君(閻魔凜)が仲睦まじく過ごしていたのに、四の君と肉体関係を持って横恋慕で二人の仲を台無しにする宰相中将(名執四鹿)」の図に重なる印象を受けました。

 

 

 

 

【結】

 本記事では『とりかへばや物語』における「わがために〜」の和歌を紹介しながら、『獄スト』にて和歌を扱った意図などを探ってみました。「わがために〜」の和歌は物語開始地点からすでに五右衛門と主人公の間に何らかの関係性が築かれていたことを示唆するために使用されています。また、五右衛門の関連人物である名執四鹿は友人の想い人を無理やり奪うという意味で宰相中将と似ている部分があり、もしかしたら四鹿の設定は『とりかへばや物語』の宰相中将を参考に作られたかもしれない…と思いました。

 『とりかへばや物語』は“入れ替わり”という要素が取り沙汰されることが多いですが、三瀬川の俗信を取り入れた古典文学であることも特徴の一つであると考えられます。『獄スト』は『とりかへばや物語』以外にも三途の川に関する和歌を作中に登場させ、古典的な要素を絡めながら物語を形作ったという点でとても興味深い作品に仕上がっていると感じました。『とりかへばや物語』は個人的に大好きな作品で、和歌も物語の展開に合った素敵な和歌が揃っているので、好きなゲームジャンルである乙女ゲームに取り入れられていたことが個人的にとても嬉しかったです。『天獄ストラグル』、ありがとうございました。

 

 

【参考・引用作品、資料】

・石埜敬子、三角洋一『新編日本古典文学全集39 住吉物語 とりかへばや物語

アイディアファクトリー天獄ストラグル -strayside-』