シャレステ感想と“再演”について(※特大ネタバレ)

※この記事は舞台版に限らず、ゲーム『CharadeManiacs』の真相ルート以外のネタバレも含んでいます。ゲームクリア前の方は絶対に見ないようお願いいたします。

 

 

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【はじめに】

 シャレードマニアクス舞台版(シャレステ)、見てきました。オトメイトの舞台も2.5次元舞台も世の中にはたくさんあるでしょうが、シャレマニ自体が演技や観客のいる配信番組を物語の要素として用いていることもあって、舞台化の相性が明らかに良いんですよね。2020年の上演時も見に行きたい気持ちはありましたが、この時は2次元を3次元化することへの抵抗感が強く、コロナ禍も重なってスルー。後にゲネプロ映像が360Channelで配信され、シャレマニと舞台化の相性◎っぷりと、原作にできるだけ近づけながらも舞台だからこそできる感情のぶつけ合いを舞台上でやりきった演者の方々の努力に度肝を抜かれ、舞台化への印象がガラッと変わりました。現地に見に行かなかったことをとてつもなく後悔し、流石に再演はないよな…と思っていた2023年秋。ゲーム5周年を迎え、コロナも落ち着きつつあるこのタイミングでのまさかの再演決定。これはもう行くしかない!と思い、チケットを握りました。実際に生のお芝居を肌で感じられてとても良い経験となりました。本当に感謝。当記事では舞台の感想を語った上で、ゲーム本編にも存在した『再演』概念について考えてみたいと思います。

 ※以下、ゲーム本編(真相ルート以外の部分)やキャラソン、小冊子等のゲーム外供給、舞台等のネタバレを大いに含みます。シャレマニ未プレイの方が万が一このページに辿り着いた場合は、この先の記事を読まずにVitaかSwitchかスマホアプリ(iOS/Android)でゲーム本編を遊んでいただけると幸いです。一番おすすめしたいのは冒頭無料かつシステムの一部が快適化されたアプリ版(3800円)です。よろしくお願いいたします。

 

 

【シャレステ感想】

 配信での観劇(Dミュ)や音楽ライブ内での現地観劇(ミリオンライブ6th追加公演)はあったのですが、純粋にお芝居だけを見に行くのは初めてでした。当てた席はド上手(客席から見て右側)前方。め~~~~ちゃくちゃ近かった。音楽ライブは別作品で時々現地に行ったことはあったのですが、普通に武道館の天井とかさいたまスーパーアリーナの後方とかで演者のフォルムしか見たことがなかったので、表情がはっきり見えるくらい近い場所で「観る」体験が初めてでした。あまりにもヤバイ。演者と目が合うわけではないけれど、遠くを見たり視線を外すときにドキッとするぐらい近いんですよね。そのおかげでゲームで拾えない連続的な動作や視線による表現が味わえて本当に楽しめました。まあド上手ゆえに、下手は見えづらかったのですが…それでも表情は全然わかるというのが凄かったです。

 やや話は変わりますが、逆に(良い意味で)全く見えなかった部分もあって。暗転の時の各々の動きが見えなかったんですよね。目が慣れるとある程度見えるのかな?と思っていたんですが、わりと最後のほうまで「いつのまにか移動してる!?」と驚けて面白かった。あんな暗闇でちょっとした蓄光バミリ?を頼りに動けるのが本当にすごい。

 

 

 あと、これは良し悪しあるのですが、近かったのは演者だけではなく…音響機材(スピーカー)も距離が近くて爆音を浴びてました。シャレマニの音楽が大好きなので、基本的には、基本的にはアゲアゲ↑な気分になれていいんですけど…。今回おそらく演出強化の一環で新しいSEが追加されていた(元からあったものかも)と思うのですが、それらがあまりにも爆音で鳴るもんだからマジでそこはうるさかったです。例を挙げるなら序盤で凝部がバウンサーにアナログゲームを頼んで、暗転後に実物が出現するシーン。おそらくあのタイミングで初めて爆音SEを浴びたので強く印象に残っていますね。配信では勿論そんな爆音にはならないので、ある意味現地(の端っこ席)ならではの体験ができたのかなと思います。耳に支障が出たわけでもないし、それはそれで良かったのかもしれない。

 

 

 斜めから舞台を鑑賞できたこと、焦点が当たっているキャラ以外の動きを自分で追えたことも、配信ではできなかったことでした。ド上手の良いところは下手側の出入りが角度的に丸見えな点にありますね。配信だと出てくる瞬間って基本的に映らないので、スッと出てきて話し始めるのが新鮮でした。ポジション的に面白かったのは瀬名ちゃんの声を取り戻すいじめドラマで廃寺を受け止める陀宰。あまり時間がない中で廃寺役の方が窓(仮)から移動して陀宰役の方にお姫様だっこしてもらう一連の準備が結構見えました。すでに記憶があいまいですが、抱っこして裏で待機する時間は体感わりとあったような。その上、私が見た回では廃寺役の方がすぐに降りるつもりがない素振りをしていたように見えて、仲が良さそうでほほえましかったです。実際に廃寺と陀宰は加害者&被害者ですが、陀宰が廃寺に同情的な部分があるので意外と仲良く話せているんですよね(小冊子や前日譚漫画より)。だから廃寺も陀宰に対してああいう茶目っ気は見せそうだなと思います。ゲーム本編に存在してほしい動きでした。

 

 

 「焦点が当たっているキャラ以外を自分の目で追う」のは、本当に現地で観劇出来て良かった点かもしれない。最終盤のアステル糾弾シーンでずっと顔を下に向けている双巳がものすごく良かったです。大体顔を下に向けたり隠しているけど、気づけばちょっとだけ動いているんですよ。勿論瀬名母(カヨ)の名前が出たら顔を上げるし、射落さんがアステルを消去し出したあたりで動き出すのも不穏で。あとは双巳に拘束された射落さんが手を振り払った後、明瀬が心配するところも良かったです。茅ヶ裂さんもずっと申し訳なさそうに黙っているのがキャラらしかった。別のシーンだけど、デッドエンド説明時の映像を見ている獲端と瀬名ちゃんの段々思い出している感じも、ゲーム本編には描かれなかった感情の機微が見えて好きでした。

 

 

 

 特に印象に残っているシーンは「お姉ちゃん」と呼ばれて目を輝かせた瀬名ちゃんに手を握られた後の廃寺の動き。包み込まれた両手を胸に持っていって、歩き出した後も暗転するまでずーっとそのポーズのままだったんですよ。廃寺はアステルであり、つまりはAIなわけですが、アイスの冷たさや甘さを感じた上で好んでいるわけじゃないですか。だから廃寺にはきちんと五感が備わっている…ということがキャラ設定から分かるわけで、瀬名ちゃんの手のあたたかさを感じたんだろうなとは納得できます。じゃあその、「あたたかな手」をわざわざ胸に持っていく動作にはどういう意図が込められているのかなと考えていて。まあ普通に考えると、シンプルに喜びの表現だと受け取れるんですよ。ただ、手を握られて、離した後に温度的な温かさがなくなっているはずの手を大事そうに心臓(こころ)の近くに持っていくというのは、うまく言えないけど人間的な動作だな…と感じたんですよね。この一連の動作が現地で見ていて一番衝撃を受けました。

 アステルは「人は心臓じゃなくて脳で思考する生き物」と普通に分かっていそうなので、その点においては胸に手を持っていかない気がするんですよね。ただ、アステルはフヅキ(瀬名祖母)からの教えで心臓の音が人の感情と連動していることは学習しているので、そのあたりの知識をもとに意識的でも無意識的でも心臓近くに手を持っていくことは可能なのかな…と、思い返しながら考えていました。「AIであるアステルが胸に手を持っていく動作をする」表現に演者さんの意図があったのかは分からないけれど、「お姉ちゃん」呼び→瀬名ちゃん罰ゲーム後「心配されたの初めて」→後半「こうして手を握ると温かいのに離れると冷たい」(※うろ覚え)→最終盤「誰かが手を引いてあげれば〜」(※うろ覚え)というあの一連の瀬名ちゃんと廃寺が手を握る描写の多用には脚本的な意図があると思う。廃寺のキャラソン「ゆめのなかへ」も瀬名ちゃんの「あたたかさ」が印象に残っている様子が表現されているので、よりゲーム本編と歌詞に則った物語性を感じました。結局全ては演者の表現から受け取った私の想像でしか無いけれど、廃寺タクミ、アステルというAIを人間が演じる意義がこの場面に詰まっているように感じられました。

 

 

 あとは、アドリブについて。私は舞台にきちんと触れるまで日替わりのアドリブシーンに良い印象を持っていなくて。昔の私はキャラ崩壊の可能性を何よりも嫌がる不寛容なオタクだったので、役者の色が特に出そうなアドリブパートの存在を見ないくせになんとなく嫌悪していました。他のコンテンツの舞台化がどうかは結局わかりませんが、シャレステに関しては配信か円盤か忘れましたが初演の映像を見たときに「思ったより悪くないかも…」と印象が変わったんですよね。煮卵事件で明瀬が「え、俺食べちゃったよ…」みたいな焦り方をしていたり、ゲームを遊んでいる凝部が「シャレードマニ、あ…(クスッ)」と作品名を途中で止めたようで全部言っていたり。メタ的でありながらキャラに則った演技をしていることにとても好印象を持ったので、今回もアドリブは楽しみにしていました。とはいえ、序盤に双巳さんが制服姿で演技した後の陀宰か明瀬が、本当は笑うシーンなのに笑ってなくて双巳さんに突っ込まれる、というのは想定外すぎて、急なアドリブにめちゃくちゃ驚きました。配信も15日の2公演を購入して確認しましたが、見た中で好きだったのは茅ヶ裂さんの土下座ですね。あと双巳・射落さんに絡まれている瀬名ちゃんをなかなか助けない千秋楽の明瀬も、複数公演ならではで好きでした。

 一番好きだったのは、廃寺役の工藤大夢さんのアドリブでしたね…印象に残ったシーンも工藤さんのお芝居だったので、シャレステで総合的に好きだったのが工藤さんなんだと思います。なんならプレイベントの時から面白かったので。現地で観た回で隔離後に凝部と廃寺が2人で何もしてないシーンの始まりで、服のボタン(9個)とタイツの星(3つ)の数を数えるのがとてもシュールで。それで終わりかと思いきや陀宰と瀬名ちゃんが話している脇の、席的にほぼ正面で差し入れのサクランボ?やブドウを数えだしたのが個人的にツボで、でも静かなシーンなので声出して笑えなくてめちゃめちゃ辛かったです。辛くなるくらい面白かった。それだけでも最高だったのに、終演後のコメントでタイツとボタンを指さして「39(サンキュー)」で〆たのが伏線回収すぎて普通に感心してました。え!?すご…みたいな。長年ハマっている推しコンテンツ(アイドルマスターミリオンライブ!)がサンキューを伝えまくる作品なので、余計刺さったのかもしれない。終演後に及ぶ「本編を超えた仕込み」という発想が全然なかったので、良いアドリブ体験ができたなと感じました。

 

 

 

【シャレマニと再演】

 記憶がある限り永久に振り返ってしまいそうなので一旦舞台そのものの感想は置いておきまして。ここからは「再演」という概念の話をしようと思います。ざっくり言うと「再演」展開があるシャレマニの舞台化で「再演」が見られて良かったねという話。

 

 

 シャレマニが演技や舞台の要素を物語中にふんだんに取り入れていることは、ゲーム・舞台で物語に触れた人のいずれも実感するところだと思います。「再演」については、瀬名ちゃんの声を取り戻す再演、獲端の腕を賭けた再演、凝部の代わりに罰ゲームを受けた陀宰と凝部出演ドラマの再演─などなど、色々な再演がゲーム内に登場しました。勿論全てを舞台版で描くことは不可能なので、舞台ではいじめドラマの再演(と若干触れられる茅ヶ裂さんの足の機能を取り戻す再演)のみに留まっています。これらの再演は罰ゲームと関連した再演ですが、攻略キャラクターの中でプロローグに披露した一場面を個別ルートのエンディングで“再演”をするのが萬城トモセでした。

 

 

 瀬名ちゃんに自分を恋愛対象として見てもらえない焦りが声や顔(スチル)に滲んでいたトモセは、お芝居の中で瀬名ちゃんと恋人になれるアルカディアのルールに一度は迎合し、瀬名ちゃんを想って視野が狭くなるあまりに周囲との不和を生みながらも、個別ルートではトモセと向き合おうと体を張って罰ゲームを受けた瀬名ちゃんと過ごす中で少しずつ変わっていきました。そしてエンディングでは「やり直し」を望んでいた瀬名ちゃんに対して、同じセリフ、同じシチュエーションでありながら穏やかな声色と表情で告白を“再演”します。同じ台詞でも演じる人の心境の変化によって僅かに、あるいは大きく印象は変わる。諸々が変わったとしても、内に込められた思いは変わらないものである─。トモセの個別ルートにおける“再演”演出には、数年後に同じ物語を再び上演することの意味が詰まっていると思います。

 

 

 私は原作ファンとしてシャレステを観劇したため全体的に出演者の方々を「数年ぶりに見た」のですが、年齢を重ね、役者としての経験を積んでいったことで初演の時と変わっている部分がきっとあるんだろうなと思います。具体的にどこが変わったか、というと分からないのですが、演出面込みでブラッシュアップされている印象はものすごくありました(舞台上での役者をずっと見続けてきた特に演者のファンの方々はもっと分かるのかもしれない)。長い月日の変化だけじゃなく、複数回上演されたことで1公演ごとに言い方、身振り手振りなどの細かな違いもあると思います。

 さらに言えば、観客自体も年数を経て、考え方や価値観は変わります。私自身、4年前と若干異なる環境に身を置いて日々を過ごしており、シャレマニに関しても改めてゲームを遊びなおしたり特典小冊子や漫画などで本編に描かれていない描写に触れたりしたことで作品の捉え方が大きく変わりました。「シャレステ」というパッケージに入っている、ほぼ脚本が変わらない(※多分)お芝居だとしても、その中には確かに「差」があり、シャレマニ5周年の今だからこそ再演をする意味があったのではないでしょうか。本編になぞらえるならば、アステルが長年重視せずにいた「目に見えない思い」「直接言っていないこと」を声の調子や表情、身振り手振りから読み取ってこそ演劇は成立します。同じ台詞/同じ展開/同じ物語でも、演じる人の変化や演技の方針転換、舞台の環境、細かな所作の違いで受け取り方が変わることを、シャレステ再演は再度強く認識させてくれる素晴らしい作品でした。

 

 

 言いたいことは以上なんですが、最後に「キャスト変更」について。これもある意味、シャレマニ内に存在していた要素です。私は再演について「同じ人の演技でも違って見える」と上述しましたが、当のトモセ役は今回、続投ではなく新キャストの三原大樹さんが務めていました。これはめちゃくちゃ表現が難しくて微妙な話(だけど好意的な感想)ですが、「これまでと別人が役を演じることになっても、観客はドラマ(物語)を見続ける」という意味で、“異世界配信”的な構造を有していると感じています。千秋楽で三原さんがおっしゃっていた異世界人=リアル舞台の観客たちという構図は突っ込まれていましたが、実のところポジション的にはその通りで。メイン登場人物10人の怒りや悲しみもエンタメとして“観ている”存在であることは共通していると思います。異世界人と現実の観客が違うのは、キャストの変更に気付けること。そして動作のひとつひとつから情報を拾い上げて登場人物の感情に思いを馳せられること。そんな異世界人の立ち位置だけど、そのものではない観客のポジションにいることを実感させてくれたのは、新(メイン)キャストのお二人だったと思います。年下成分の強い新しいトモセと、見た目も含めとてもハマっている新しい陀宰を見せてくださったことにとても感謝しています。再演のみならず、キャスト変更、観客(異世界人)という本編中に登場した要素について想像を膨らませることができる点でも、シャレステ再演は原作ファンの私に貴重な体験をさせてくれました。

 

 

【おわりに】

 最後に。個人的な解釈になりますが、少し前に、私はシャレードマニアクスを「やり直し(再出発)」の物語であると定義しました。ゲームのスタート画面のBGMは『Starting Over(やり直し・再出発の意)』なんですよね。トモセの告白の“再演”に限らず、誰かを守る「ヒーロー」をやり直す明瀬、自分のルーツを断ち切ってヒトとして生きる決意を固める茅ヶ裂さん。黒幕に「証明」するため、なくした腕と日常を取り戻すため、あるいは心残りの正体を見つけ出すために再びキャストとなった陀宰、獲端、凝部。差し伸べられた手に縋って生きる目的を見つけたものの、新たに出会った「2番目」に心を乱される双巳。兄を見過ごした後悔から犠牲を伴う断罪を覚悟したにもかかわらず、結局大勢が犠牲になる道を選んでしまった射落さん。これまでの全ての罪を抱えて瀬名ちゃんの胸に飛び込んだ廃寺─。攻略キャラたちは皆が皆それぞれのやり直し・再出発を既にしていたり、これからしていく未来が待っているように感じます。それもあって、シャレステの舞台がやり直し(という表現が適切か分からないけれど)となることはまさに「シャレマニ」だなと思いました。

 再び設けていただいた上演の機会に、配信を通してではなく生のお芝居を見られたことは、私の中で忘れられない思い出です。本当にありがとうございました。